海辺の街のキャンパス

「これ、今日のスペシャル。どう?」

 最後列に座った丸眼鏡の学生が、隣の陰鬱な顔にスマホの画面を見せた。学食のメニュー画面には、ひときわ大きな文字で『今日のスペシャル』と斜めに書かれており、文字の背景には、金属トレイからはみ出た揚げ物がど~んと並んでいる。

「揚げ物ばっかじゃん。食えねーよ」
「そうか? 四百円ならお得だろ? ロースかつとメンチかつとコロッケ! 揚げ物トリプル‼」
「シングルでもいらない感じ」

 窓側の男は胃下垂でもあるのか、青白い顔で窓の外に視線を移した。

 キャンパスは海辺の街の高台にあった。講義棟の窓からは、グラウンド越しに深く湾曲した入り江が一望できる。沖合には大きな島影も浮かんでおり、いつもは穏やかな内湾の煌めく様も見晴らせるが、今は強い海風に波頭が白くさざ波立っている。

「あれ、なんだ?」

 窓側の胃下垂が、丸眼鏡に訊く。胃下垂の視線の先には、強い風をまともに受けたユニフォーム姿やドレス姿の集団があった。中には抱えきれないちらしを海風にさらわれる者や、それを追いかける下っ端らしき連中もいる。

「あれは…… このあとサークル勧誘する連中だろ?」
「ふ~ん」
「演劇やる?」
「やらない」

 胃下垂は丸眼鏡の問いに、きっぱり返事した。

 胃下垂の名は、霧島きりしま 一縷いちる。丸眼鏡は、篠井しのい 未来みらい。ふたりがいる一〇一講義室では、文学部新入生向けの履修ガイダンスが続いている。

「…… いいですかぁ~、水城みずき教授のフランス語初級は仏文科の学生さんは必修で~す。最初の授業はフランス語での自己紹介ですからね~。受講予定者は準備してくださいよ~……」

 サンダル履きの説明者が間延びした言い方をするから、教室内はっぱなしで、まともに聴いているのは最前列の女子くらいのものだ。

「マジか…… 最初の授業でいきなりフランス語の自己紹介とか、できるわけねーっつーの」

 未来はうんざりした顔になる。

「お前はいいよな。丸憶えする能力があるから」

 未来が言っているのは一縷の言語能力のことで、彼には言葉を音として丸ごと覚える、幼児さながらの才能が未だに残っていた。これまで何の役にも立ったことはないが、確かに自己紹介くらいなら役に立ちそうだった。

 未来を無視して、一縷は外を眺め続けている。知らぬ間には高くにあり、さっきまでの人だかりはぞろぞろとどこかに移動を始めた。

「…… は~い、履修に関するガイダンスはこれで終わりま~す。このあと、十五分休憩してもらって、そのあと各サークルの入部入会案内が始まりま~す。興味のある諸君は大講義室に集まってくださ~い。は~い、ではこれで終わりま~す」

 そういうと、やる気ゼロの教務課員は教壇を降りた。

 教室から吐き出された連中は思い思いの場所に向かって移動を始めた。学食に向かう者、校門を出ていく者もある。一縷はしばらく彼らの行く先を目で追っていたが、先に中庭のベンチに腰を下ろした未来は、せわしなくスマホに何かを打ち込んでいる。やがてベンチから立ち上がった未来が、またスマホの画面を一縷に差し出した。

「伊咲がさ、サークル案内聞くってさ」

 相原あいはら 伊咲いさき。薬学部一年生。文学部のふたりとは、高校時代からの、いわゆるだ。

 一縷と未来は演劇部の幽霊部員同士で三年間クラスが同じ。未来と伊咲は華道部員同士。そして、伊咲と一縷は幼稚園からずっと一緒の幼馴染だ。そして、未来は積極的に伊咲に従い、一縷は消極的にだが、やはり必ず彼女に従った。

 その伊咲が一〇七講義室から出てきた。未来はその姿を認めると立ち上がって彼女を迎え、一縷はベンチに座ったまま迎えた。

 彼女は軽やかな足取りでふたりに近づくと、ベンチに座ったままの一縷の左手を強く引いた。

「さっ、早く行こっ! 座れないかもよ!」

 彼女から甘い香りがふわっと漂う。一縷はやや気後れ気味に、それでも彼女に腕を引かれるまま歩き出す。その様子を後ろから未来が眺めている。

「ちっ…… 相変わらず伊咲は一縷にべったりだな」

 高校時代から一縷の傍には必ず伊咲がいた。そのふたりの周りを、未来はぐるぐる回るように歩く。同級生の中には、一縷と伊咲の邪魔をする未来、という構図を描く者もいたが、未来の抜けた一縷と伊咲の組み合わせは不自然だった。三人は他人の勝手な想像など意に介することなく、常に一緒に行動した。

 大講義室内はすでに満杯。席を見つけられない学生が両サイドの通路、最後列の後ろにずらりと並んでいる。

「おいおい、もう満杯だよ」

 未来がうんざりした声を出す。三人は仕方なく入り口近くの通路に立ったまま、サークル案内が始まるのを待った。

「伊咲、お前、何やる予定?」
「バドミントンでもやろうかな。一緒にやらない?」
「お~、やるやる」

 未来は伊咲の誘いは基本的に断らない。

「一縷は? やろうよ」

 一縷は首を横に振ってノーの意思表示をした。

「じゃあ演劇やるとか?」
「やらないんだとさ」
「じゃあ何やるの?」
「オレの予感。一縷は髪の毛のサラサラした子が勧誘したところを選ぶ!」

 未来が軽口で二人を笑わそうとする。

「千尋さんみたいな? アハハハハ、一縷の好みはワンパターンだからな」

 伊咲も高一の時に一縷が憧れていた先輩の名前を出して彼をからかう。しかし、当の一縷はふたりの冗談を聞き流し、相変わらず青白い顔で壁に凭れかかったままだ。

 満杯だった大講義室も、運動部の案内が終わる頃には空席が目立ち始め、三人は入り口近くの最前列に並んで座わった。バドミントン部入りを決めた未来と伊咲はこの場所にいる意味を失った。一縷だけはまだ何も決まらない。そもそも決める意思も定かではないが。

「髪の毛サラサラいた?」
「いた! ラクロス!」
「一縷とラクロス?…… アハハハ、想像できね〜〜」
「やらねーよ」

 ふたりは一縷がどのサークルに興味を持つのか、一応の関心を示したが、本人は何かを選ぶ気配がない。そのうちふたりは、学食のランチメニューに関心を移した。

「スペシャルランチにしようよ。早く行かないと、なくなるかもよ!」
「スペシャルって言っても四百円でしょ? 四百円のスペシャルってどんなスペシャル?」
「ロースかつとメンチカツとコロッケ! 揚げ物トリプル‼」
「…… ゲッ」

 未来の推奨を伊咲も拒否したところで、よく通る女性の声が室内に響き渡った。




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