白い後ろ姿

「泊るから」
 伊咲の言葉は一縷の予期したもので、驚きはなかった。

「勝手にすれば」
 この一縷の返事も伊咲には予想の範囲内だったようで、体育座りの膝に乗せた顔は、表情ひとつ変わらない。

「シャワー借りるよ」
 そのままの姿勢で不機嫌なまま伊咲が言うと、一縷は押入れからバスタオルを取り出し、伊咲に投げ渡した。
 それを無言で受け止めた彼女がシャワールームに消えると、やがて水の跳ねる音がし始める。
 一縷は今度は押入れから寝袋を取り出し、頭からひっかぶった。

 幼馴染の伊咲は一縷が忘れたい時間を連れてくる。温かく満たされた時間と同時に、忘れたくても頭から離れない苦々しい記憶をも連れてくる。
 寝袋の中は意外なほど心地よく、そのうち一縷は静かな寝息をたて始めた。

 シャワールームから出てきた伊咲は、髪の毛を乾かしながら寝袋を見下ろした。それが規則正しく上下する様子を確認すると、毛布をもう一枚掛けてやり、部屋の灯りを消す。そのままベッドにしばらく腰掛けていたが、やがて小さなため息をつくと、ベッドに潜り込み、ひとりで眠った……


 ……


(あっ、ごめん)

 脱衣場のドアを開けると、煙った湯気の中に白く艶めかしい背中と臀部が浮かび目の前に迫った。
 わずか一秒にも満たない時間だったが、その白い後ろ姿は一縷の脳裏の奥深くに刻み込まれた……


 ……


 一縷は寝袋から跳ね起きた。

(また、あの夢…… )

 暑い……
 寝袋と記憶にない毛布。額に汗が光る。ふとベッドに手を伸ばすと、そこに動く気配を感じて思わず身構えた。

(伊咲か…… )
 ベッドでは伊咲が静かな寝息を立てている。一縷はそっと起き上がると、スマホを持って外に出た。

 アパートから五分も歩くと海岸沿いに出る。胸の高さまでの防波堤が続いていて、その向こうには遠く漁り火が揺らめいている。
 一縷は防波堤によじ登り、寝転んで目を閉じた。静かな波音が、規則正しく繰り返している。

(クソっ……)

 誰もいない真夜中の防波堤で、一縷は天空に向かって小さな声をあげた。夜灯りが苦々しく歪んだ顔に深い陰影を差した。
 今しがた夢に浮かんだ白い後ろ姿は、否が応でも、もうひとつの記憶を呼び覚ます。一縷がいくら抗おうと、記憶は繰り返す波のように蘇り、目を閉じても鮮やかな色を伴って現れる。母親から離れた場所に暮らそうと、その記憶は一縷をどこまでも追いかける。


◇ ◇ ◇


(…… 君のお父さんはね、私たち従業員のためにきちんと弔慰金ちょういきん規定や死亡退職金規定を作ってくれてね…… なのに、最初の該当者が当のご本人になるなんて…… )

 突然の交通事故で一縷の父親はあっけなく死んでしまった。高校一年の冬のことだった。その年の年末年始、一縷と母親はふたりだけが暗幕に覆われ、他の人々から隔絶されて過ごした。
 母親はずっと泣いていた。ただ泣いていた。弔問客に何かを言われるたび、ろくに返事もせずただ泣くだけだから、客の多くは隣に座っている一縷に向かって、大変だけど頑張って、だとか、お母さんをこれからは君が守ってあげなさい、だとか、同じような言葉を繰り返した。

 父親が経営する会社の総務部長だったあの男が一縷と母親の前に正座したのは、母親がようやく泣き止んだ、父の死から数か月後のことだった。
 葬儀やら、死亡直後のあれこれの手続きなどで面倒をかけていたらしいが、一縷はまったくそのことに気がつかず、その男が目の前に現れて初めて、何もかも彼が取り仕切ってくれていたことを知った。

(一縷君は何も心配しないで学業に励みなさい。お父さんはきっとそう望まれていると思う)

 その男から経済的には何の心配もないこと、煩わしい手続きはこちらできちんと行うし、わかるようにするからと告げられた時は単純に喜んだ。
 早すぎる人の死は、思わぬ雑事の連続で、それを行うのはおろか、話を聞くのも面倒になるものだ。そもそも、泣いてばかりの母親がまるであてにならない。まだ十七歳にもならない自分がなぜこんな面倒に巻き込まれるのか、一縷は父親をその死ではなく、死後の煩雑さで恨めしく思った。逆に、黙って雑事を引き受けてくれるこの男を一縷は徐々に信頼し始め、母親も何かにつけてこの男を頼る言葉を口にするようになった。

 一縷を二十歳前に産んだ母親は、まだ三十代半ばだった。母方の祖父や祖母、伯父や伯母までがやたら母親の将来を心配したが、当時の一縷にはその理由が理解できなかった。一縷にとって母親は、ただの母親でしかなく、他の大人があれこれ母親の心配をするのは余計なお世話に思えたのだ。

 祖母たちがあれこれ言わなくなる頃、あの男の姿が一縷の家で時々見られるようになった。届け出の為にサインを、月命日なのでお線香を、近くまで来たので様子伺いに、等々、時々に訪問理由は違ったが、ある時から特別な理由がなくなった。

 ある日、大雨のために午後からの授業が打ち切りになり昼過ぎに帰宅すると、いつもならいるはずの母親が不在にしている。きっと近所に買い物にでも出かけたのだろうと、一縷は気にも止めず部屋でぼんやりしていたが、窓に打ち付ける雨音が激しさを増すに連れ、母親のことが心配になった。迎えに行こうと玄関で雨靴を探し、ドアに手をかけようとしたところに、母親が玄関ドアを引いて飛び込んできた。
 その姿は一縷の想像した普段着の買い物姿ではなく、胸元の開いた柄の大きなワンピース姿で、雨に濡れた髪はほつれ、口紅が不自然に薄く取れかかっていた。

(どうかした?)
 突然入ってきた母親に驚いた一縷が声をかける。

 その声に驚く母親の顔は、数ヶ月前まで泣き暮らしていたことが嘘のように生々しく、一縷を息子ではない他人を見るような強い目線で睨んだ。その目は人を咎める時のそれだった。

(なんでいるの?)
(雨がひどいから、母さんを迎えに行こうと思って)
(…… 人の心配より自分の心配しなさい)
 それだけ言うと、母親は濡れた足のまま玄関を上がり、薄暗い廊下に点々と湿った足跡を残した。

 一縷は理由もわからず不愉快だった。母親が脱いだ赤いサンダルを投げ棄てたい衝動に襲われたが、それすらできない自分が情けなく、二階の自室に駆け戻った。

 その日以来、解けぬ問題を放置したかのような不安と苛立ちが続いた。そして時々、その日の光景が蘇る。悪いことに、やがて一縷はその日の意味を知り、あの白い後ろ姿がその光景と重なるようになってしまった……


(クソったれ)
 天に向かってかっと目を見開く。がばっと起き上がった一縷は海を睨み、声を出せぬまま、右手の拳を左の手のひらに強く打ち付けた。
 波は静かに繰り返す。いつまでも変わらぬリズムで波音を防波堤に跳ね返した。

 その時、ポケットの中でスマホが振動した。
「もしもし?」
「一縷? 今どこ?」
 伊咲の細い声が届く。
「散歩」
「そっち行っていい?」
「もう帰るけど?」
 アパートに向けて歩き始めた。
「行っちゃダメ?」
「思ったより寒いよ」
「うん」
 直線道路の先にアパートが微かに見えるところまで戻った。
「前の通りを海に向って歩いてみ?」
「わかった!」

 伊咲の声が弾んで切れた。まもなくアパートの前に人影が現れると、路上で左右に顔を振り、方角を確かめた後、一目散に一縷を目指して走り出した。はっきり表情がわかる場所で速度をゆるめると、今度はゆっくり二三歩進んで、伊咲は一縷の胸に辿り着いた。

「伊咲…… ゴメンな」

 高二の二学期、急に誰とも口をきかなくなった一縷の傍を離れなかったのは、伊咲と未来だけだった。その伊咲を大切にできない自分自身を、一縷は恨めしく思った。
 伊咲は黙って顔を一縷の胸に埋めた。一縷は、伊咲の首筋から立ち昇る微かな香りに戸惑い、伊咲の肩に回そうとした腕を途中で引っ込めた。




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