全員がいつの間にか手にしていたクラッカーを一斉に鳴らした。
(なんだなんだ? 西野ジャパンの凱旋帰国?
えっ? なんかキャンペーンに入賞でもした⁉)
不意を突かれて一瞬怯む遥。もとは小心者だ。
「おめでとうございま~~す」
さっきまで激オコだったはずの小山社員がニコニコしながら歩み寄り、小さな花束を差し出した。
(ん?…… 私?
そうか……
忘れてた…… 私、誕生日じゃん)
ブーケとメンバーからの祝福を受ける。いつもの朝礼時より、みんな少しだけ距離を詰めて集まってくれている。私を見つめるみんなの目が、何かを思い起こさせる。
そう…… これは私が提案して始めた行事だった……
『こんな小さな支社なんですもの。お誕生日くらい、みんなでお祝いしましょうよ』
着任から半月後、スタッフの遠藤さんの誕生日に始めた支社で最初の決まり事。あの頃の私は、女性らしく優しさのある支社、その姿を具体的にどう実現するか、そんなことばかり考えていた。
でもこれはただの思いつき。軽いノリで花束を買ってきただけだ。
それなのにあれからずっと続いている。今やメンバーの誕生日には、自分が忘れていても必ず誰かが花束を用意してくれる。みんなよく思い出せるわ、最近はそんなふうに思っていた。
だけど……
よくよく考えれば、あれは私の命令だったのだ。不用意な思い付きも、私が口にするとこのオフィスの中でほとんどが命令として伝わる。そんな当たり前のことを忘れていた。
すべて私の責任……
遥はようやくそのことに気がついた。
自分はなにもできちゃいない。ただ、お飾りとしてこの場所にいるだけ。彼や彼女たちに選ばれた存在でもなんでもない。それなのに、偶然居合わせたメンバーはちゃんと御輿を担いでくれる。この支社を、私が思い描いた形にするため、みんなちゃんと考えてくれている。
(日本一になりたい)
そんな無謀な思いつきですら、唐澤はずっと追いかけてきたと言った。私自身が諦めかけていたことなのに、メンバーは忘れてはいない。ダメな私を支えるために……。
「え~、それでは恒例でございますので、ご本人からお誕生日のご発声をいただきたいと存じます。諸事情により、何度目のお誕生日であるかの発表は控えさせていただきますので、各自余計なご推測などされないように。
では、足立さん、どうぞ」
地味だとばかり思っていた葛原の軽口に、みんなは和んだ笑顔を見せている。
「みなさん…… 」
並んだ顔をひとりひとり確かめる。
彼らのこと、ついさっきまで、無愛想だの不機嫌そうだの、鼻毛抜いてるだの、ゴシップばっかだなどと思っていた自分が恥ずかしい。
もっというと、日本一の支社にするのだと思いあがっていたこと、なにもできていないなんて不満に感じていたこと、ここ数日間のあれやこれやのこと、自分はホントに情けない。そんなことを思うからか、ううっ、と何かが込み上げてきて言葉に詰まる。
「みなさん…… ありがとう。みなさんも、健康には気をつけて……」
涙声で健康に注意…… しばし沈黙…… 一瞬にして凍りつくメンバーの顔、顔、顔……
ハッ!
「あっ! ごめん! なんでもないよ! 健康診断全部マルだから! ホント、健康なのよ! うそっ! ごめ~ん、そういうんじゃないからぁ~~」
懸命に言い訳する遥。涙声で言葉少なに語ったかと思えば、慌てふためいて言い訳している……
そんな遥の姿がおかしかったのか、嘱託社員の美濃さんが爆笑し始めた。その大笑いが徐々にメンバーに伝播し、いつのまにかオフィスには、飛び切り明るい笑い声が溢れた。
✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤
メンバーから背中を押され、遥はその日、夕方早くオフィスを後にした。まだ明るいうちに帰るなんて、少し罪悪感。夫の恭平に今日は早いよとメッセージを入れると、駅で待ってると返信があった。
改札を出ると娘の知佳が走り寄り、夫の恭平は軽く右手を持ち上げる。
娘のリクエストでチェーンのイタリアンに入り、恭平とグラスワインで乾杯した。
帰り道、デパ地下でチーズとワイン、それと知佳が選んだデザート類を買い足して、梅雨明け間近の夕闇の中をバスに揺られた。
窓際に椅子とテーブルを寄せ、遠い都心の夜明かりを眺めながらワインを飲んだ。こういうこと、ここに移り住んだ頃には時々あったような気がするが、この四年の間には一度もなかったかもしれない。
「もう七夕だね」
時計が午前零時を回る頃、恭平がふとそんなことを口にした。
「ホントだね。お母さんも、いっそのこともう一日出産を遅らせてくれれば、私も晴れて七夕が誕生日だったのに……残念だわ」
「そう? 誕生日を祝っていると七夕の日がやってくる、そっちのほうがよくないか?」
「そうかなぁ…… 七夕やっぱりは明日の夜だよ。織姫と彦星は明日の夜、天の川が夜空を彩る頃、ようやく会えるんだよぉ」
「いや、午前零時を回ると会って、明日の夜、午前零時を前に離れ離れになる」
「え~~~、じゃあ明日の昼間雨になるとどうなるのさ?」
「そりゃ…… そのまま一年間一緒に暮らすわけだよ。帰れないから仕方なく」
「え~~~、仕方なくなの⁉ ショック……」
「なんだよ。ショックでも一年間一緒のほうがいいだろ?」
「…… そうかもしれないけど」
「そんなもんだよ。
何かが特別であるより、何も特別じゃないことの連続のほうがいいんだよ、何事も」
時々、恭平はこんな意味のあるような、ないようなことを言っては遥を不思議がらせる。
でも、そうかもしれない。特別な何かより、何も特別じゃないことの連続、それも素敵なことかもしれない。
「私ね、まだがんばろうと思ったよ、今日」
「おやおや、先週の内示の日には、こんな会社もう辞めてやる! くらいの勢いだったけどね」
「人間だもの、そんな日もあります」
「簡単に立ち直るところが遥のいいところかもね」
「立ち直ったんじゃありません。気づいたんです」
「そう。よかった」
それっきり恭平は黙ったまま静かにワイングラスを傾けた。
『星に願いを…… 支社のメンバーがそれぞれに夢を叶えられますように』
なんとなくそんな気分だった。
でも、ついでにこんなお願いをした遥を、神様はちゃんと知っている。
『来年こそ、本店に異動になりますように……』
そんな遥のことを知ってか知らずか、恭平は穏やかな顔でうたた寝を始めた。静かな寝息がなぜか愛しい。
『あの頃の未来…… いる感じかも』
遥はなんとなく嬉しくなって、ごくりとワインを飲み干した。天の川は見えないけれど、都会の明るい夜空に、ひとつふたつの星がきらめいた。
(完)