彼女はボクの左手を強く引いてステージに向かった

 あの日、まだ出会ったばかりだというのに、彼女はいきなりボクの左手をグイと引き、店の奥の小さなステージに向かおうとした。不意をつかれたボクは飲みかけのコロナビールを溢してしまい、慌ててカウンターのマスターを探す。グラスを丁寧に磨いていた細面の彼は、構わないよと目配せし早く行けと促した。

 ステージ、といっても、そこは中二階下に設けられた隙間のような空間で、天井が低く狭苦しい。遠目には無造作に置かれた楽器類と、そこにする常連の後ろ姿が垣間見えるだけ。そんな場所だったから、まだ何度かカウンター席に座っただけのボクは、この一段下がった場所に足を踏み入れたことがなかった。

 ダウンライトが照らし出すステージ。照明の位置が思ったより近くて眩しい。
 左手奥に古いアップライトピアノ、センターにはドラムセット、右手にはマリンバとパーカッション類が並び、その間に置かれた大小のアンプには数本のギターとベースが立てかけてある。
 今はピアノの傍に椅子を寄せた数人が談笑しており、ボクたちに気づくと揃って強い視線で睨めあげてきた。着崩した白いワイシャツと細い黒ネクタイを緩めた姿は、昔のジャズメンを思わせた。

 そんな彼らに、彼女は臆することなく近づき声をかける。音楽という共通言語を理解する者同士ということか、それとも、生意気そうな新参者を試そうとでもいうのか、短い会話を交わしただけでジャズメンたちはニヤリと笑ってそれぞれの持ち場に散った。

 目と目で合図を交わし、ピアニストがアップライトの鍵盤を力強く叩くと、いきなり演奏が始まった。ベーシストが全身で弦を弾く。リズムというより熱量を持ったエネルギーが生み出され、それに呼応して他の楽器も響き出す。そして、すべてが共鳴し合ったところで、それまで足先で取っていたリズムをカラダ全体の波に変えた彼女が、何かに憑依されたかのように舞い始めた。

 ボクは、踊りも楽器の演奏も、歌だってロクに唄えない。いや、それどころか、こういう場所に足を踏み入れること自体が不似合いで、彼女に引き摺られるようにステージに上がったことですら、自分では信じられない冒険だった。
 しかし彼女は違った。彼女は…… 天賦の才に恵まれたダンサー、舞姫だった。ステージ上で妖しく腰をくねらせ舞っている。それは大地の精霊と交信するアフリカの踊りにも似ていて、踊りとかステップというより、魂そのものが揺らぐ様のように見える。その迫力に圧倒され、思わずボクはステージ袖の壁際まで後ずさりしてしまった。だが、彼女の射貫くような視線に絡みとられ、舞に釘付けになる。

 プレイヤーたちも同様に彼女の舞に触発され昂ぶり始める。聴き馴染んだ音階、メロディーとは根本から異なる、音、としか表現しようのないものに転じるが、なぜか魂が強く揺さぶられる。それはあたかも、おのの内側の凪が掻き混ぜられ、表層の上澄みと奥底の澱とが混濁させられるような、ワサワサ騒めく感覚を呼び起こした。

 その扇動的な音が今度は彼女の舞いに作用し、激しさと妖しさが増し始める。それがマイクを握るシンガーに波及し、彼女たちが叫びとしか言いようのない声を上げ始めると、さらにパーカッショニスト達にも伝播し、彼らは全身をバチにしてそこら中を激しく打ち始めた。

 プレイヤーたちの発する熱量はフロアのテーブルに、それから順次カウンター席にも伝わり、それぞれ別々の話題に興じていたはずの誰も彼もが、ある者は足踏み鳴らし、別の者は拳を突き上げ、さらに他の者は口笛を吹くなどして、店内の全てがステージと呼応し始める。

 この興奮の中、マスターが灯りを落としスポットライトの色調を転じると、ステージ上の彼女が赤く妖しく浮かび上がる。その舞姿は神々しい煌きを放ち、衆生を導く女神じょしんの似姿となり見る者を圧倒し始める。今やそこに居合わせた者すべてがステージから繰り出される音と舞に惹き込まれ、熱狂と陶酔の中に放り込まれる。彼女の頭の先からつま先までが一連の波となり連動して動くたび、その輪郭は陽炎が立つかのように揺らぎ出す。強い光の中のこの妖艶なエネルギーは、熱として見る者すべてに伝わり、そして魅了した。

 ダダダダダン!

 突然、すべての音と光が同時に止み、あっ……、とフロアの誰もが一瞬息を呑む。ステージの真ん中では、つい今しがたまで神々しさを背景に舞っていた彼女が、小さくうずくまっている。

 一瞬の静寂……

 明と暗、動と静の急激な反転は観衆たちを混乱させ、多くの者はその場の状況が飲み込めない。
 やがてパラパラと拍手がどこからともなく起こり始めるが、今の今までこの場を支配した大地の、魂の躍動そのものの舞と対照的に、目の前で静かに蹲る彼女は、まるで神に捧げた魂の残渣ざんさのようで、誰も彼もが声を失う。

 だが……

 彼女は突然スッと立ち上がった。そして、何事もなかったかのように長い両手を左右に広げ名女優がカーテンコールで魅せるような、たおやかで流麗なお辞儀をしてみせる。さらに、先ほどまでの神がかり的な舞が嘘のように、今度は可憐な笑顔を一瞬見せたものだから、店内はそれこそ割れんばかりの拍手喝采と指笛と、ブラヴァーの歓声に包まれた。それにちょっとだけはにかんで応えると、彼女はステージ袖のボクに駆け寄り、この首に手を回して抱きついたのだ。

 マスターがダウンライトを落とす。大歓声は闇の中で響き続ける……

 ボクは…… 彼女の甘やかな感触に包まれた。

 う、うそだろ…… ?




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