彼女は流れる夜景を眺めながらポツリと呟いた

 助手席で眠る彼女の横顔を盗み見しながら、ボクは湾岸を西に向けて車を走らせた。

「ホントはね、神戸港見たかったんだ。一度だけ家族で行ったことがあるから。私、まだ小っちゃくて、ほとんど何も憶えていないけど」

 彼女の呟きを聴き逃せなかったのだ。

 オレンジ色の街路灯が港を明るく照らす中、何台ものガントリークレーンが並んでいた。赤い警告灯が点滅し、それを結ぶとでできる輪郭はまさに巨神兵と呼ぶにふさわしい。だが、彼女には何かが違っていたようだ。

「このまま、神戸まで走る?」

 だから、彼女に神戸港を見せてやりたくなったのだ。
 そんなこと、そう難しいことでもなかった。都心を抜けさえすれば、明日の朝にはきっと着いてしまう。子供の頃、父さんの運転で、九州と東京を何度か往復したことのあるボクにしてみれば、十時間やそこらのドライブなんて、ドライブのうちにも入らない。

 だが、彼女はともとも言わず、助手席で眠ってしまった。それはいつものことで、彼女は深夜に話をしていても、突然、コトンと落ちてしまう。まるで、ぜんまい仕掛けのフランス人形が突然動きを止めてしまうような、突然だけど、とてもキレイな落ち方をするものだから、ボクはそれが全然イヤじゃなく、むしろ、その彼女を抱きかかえてソファーに横たえてやるときの、そのわずかな時間だけ、彼女を独占してもよいと神様に認められているようで、ホントはちょっと嬉しかったりもしたのだ。

 その彼女が、今は助手席で小首を傾げて眠っている。寝息も立てず、身動きもせず。それは、ボクを信頼しきっている証拠にも思えるし、いや、ボクが傍に居る居ないはまるで関係がない、というようでもあり、一体そのどっちなんだろう? なんてことを考えたりした。

 でも、そのどちらでもホントは関係ない気がする。彼女がどう思おうと、今、彼女の傍に圧倒的に長く居るのはボクであり、その事実は誰にも否定できないのだから。


「…… ん? 着いた?」
 ボクの物思いを破り、彼女が目覚める。

「ううん、まだ首都高抜けたばかり」
「じゃあもうすぐ?」
「えっ? さすがにそんな早くには着かないよ。明日の朝には大丈夫だと思うけど…… いや、お昼前かな?」

「ん? なんで?」
「なんでって、神戸までは六百キロはあるんだよ。百キロで飛ばしても六時間だよ」

「神戸? 何言ってんの? 行かないよ、そんなとこ。帰ろうよ、早く」
「えっ⁉ なんで? 本当は神戸港が見たいって……」

「もうさあ…… 」
 彼女はアクビ混じりにうんざりした、といった声を出した。

「…… なんだよ、せっかく人が良かれと思って……」

「そういうね、良かれと思って、ってのは大抵いつも外れるものなの。うちのおばあちゃんの、あなたのために良かれと思って、っていうのも、良かったためしなんかないもの」

 おばあちゃんを引き合いに出されてまでダメだしされるとボクも抗えない。

「ペキちゃんはそういうことってなかったの?」
「そういうことって?」
「お母さんとかお父さんにこれはいいことだから、って無理にさせられたこととか?」

 ボクはちょっと考えた。彼女が言いたいことに心当たりがない訳ではなかった。むしろ……
 でも、もしそうだとしても、親は親で親以外の何者でもないから仕方のないことというか……。
 だから、面倒になってボクはこう答えた。

「ないな」

「…… ふ~ん」

 ボクがすぐに返事をしなかったせいか、それとも、そこに嘘を感じたのか、彼女は興味をなくしたように車窓に流れる街灯りに目を転じた。


「部屋のカーテン、あれ気に入った?」
 外を眺めながらポツリと彼女が呟く。彼女の模様替えのおかげで、部屋は雑多で落ち着きのない空間から、プラネタリウム仕様に様変わりしていた。ソファーの位置がテレビ正面の壁際から、部屋の真ん中の、南向きの窓が正面となる位置に移動されており、そこには煌めく星々が描かれた濃紺の遮光カーテンが掛かっていた。

「うん。夜は一面の星空って感じになったね」
「ごめんね、リビングだけ変えちゃって」
「いいよ…… 」

 ボクにとって、リビングのソファーはすでに彼女のベッドで、そこはもう彼女が自由にすべき空間に思えた。それになぜか、そのソファーにボクが並んで座っていいとも思えなかったのだ。『ビジュー』での夜、彼女がボクの首に巻き付けてきた細い腕は、幼い誰かに巻き付けられた懐かしい感触を連れてきたが、なんというか…… 恋人とか異性に対するものとは違う気がしなくもなかったから。

 だけど、ボクは彼女に恋している。彼女が傍にいてくれることが当たり前に嬉しい。

 そんなことを思いながらボクはハンドルを左に切った。このインターで乗り換えて、あの部屋に帰ろう。そして、彼女がソファーに座り星を眺めている姿を、うしろのダイニングテーブルからそっと眺めよう。それが今のボクと彼女の、ちょうどいい距離感に思われるから。




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