彼女の名前をボクは知らない。だから、なに?

渡壁わたかべ、帰る前に例の報告書、あげとけよ」

 月曜日の夕方、そろそろ帰ろうかなと思っているところを筒井リーダーに引き止められる。
(そうだ、報告書だ。忘れてた)
 口頭では説明済だし、今すぐどうにかなる案件でもない。開発部門からも、将来のテーマだね、とやんわり先送りを示唆されている。だから、いまさら報告書? とは思う。
 でも、逆らえない。
 サラリーマンは生涯どれほど無駄な報告書を積み上げるんだ? などと思いながらも、上司命令を無視して帰るわけにもいかない。ボクは、はい、と短く答えて端末の電源を入れ直した。

 で、しぶしぶ、いや、一生懸命レポートを纏めているところに、同期の市原がやってくる。…… 妙にニヤついた顔だ。なんとなく面倒な予感がする。

「球場で一緒だった子、あれ誰?」
(やっぱり…… 面倒くさい)

 時々思うが、どうして人はこうも他人のことに関心を示すんだろう? 他人のことがそんなに面白いんだろうか?
 だから当然、ボクはまともに応えるつもりになれず、素っ気ない反応を返す。 
「誰のこと?」
「何をバックレてんだよ。あの派手な立ち回りの子だよ。あれ、お前のツレだろ? マジ、びっくりしたぜ。
 で、誰?」
 公園の野球場で見かけた、と言いたいのだろうが、それならその時に声をかければいいものを、わざわざ日を置いて話題にする意味がボクにはわからない。
「誰って…… 知り合い。高校野球の応援を一緒にする程度の知り合い。
 ってか、お前こそ、なんで球場にいたの?」
「オレ? オレはあそこの出身だし。野球部が久しぶりのベスト8っていうんで、ツレに引っ張り込まれたわけさ」
「お前、野球部OBでもないだろ? 暇なんだねえー、お前も」
「オレはお前と違って周囲との調和を大切にするタイプだからな。
 それよか、誰だよあの子。
 最初は、なんだなんだ? って驚いたけど、よく見ると美人だしさ。横にお前はいるしさ。
 それにしてもスッキリした美人顔だったな」
「そう?」
「あの子お前の彼女だろ? 腕組んで歩いてたよな?
 これでも気を遣って見逃してやったんだからさ。
 いい加減教えろよ。なぁ、ワタカベちゃん」
 そう言うと、馴れ馴れしく肩に手を回して顔を覗き込む。悪い奴じゃないが、とにかく面倒な男だ。
「今度紹介しろよ。あの子の友達なら、きっとかわいい子ばっかじゃん?」
「う~ん、どうだろ……」
 そう言われても言葉を濁すしかない。

(何を隠そう、ボクも彼女のことはほとんど何も知らないのだよ、市原君)

「なあ、今度合コンしようぜ。こっちは何人でも揃えるからさ」
「どうかなぁ。
 彼女、一応帰国子女らしいけど、オマーンとかアフリカとか、行ってたのはそっち方面みたいだし。
 スワヒリ語しか喋れない子でも大丈夫? お前、しゃべれる?」

 なことはないと思うが、この時、ボクは咄嗟に彼女のダンスを思い浮かべていた。あの神がかった踊りは、どう考えてもアフリカの大地で流された血と汗と涙の象徴にしか思えなかったから、その延長線上で思いついた咄嗟の言い訳だった。まぁ、オマーンは関係ないけど……

「えっ⁉ そんなインターナショナルな子なの? なおさら気になるじゃねーか。ホント、どこで引っ掛けたんだよ?」
 完全に裏目に出た。市原は目をギラつかせて次の言葉を待っている。
「いや、だから、そんなんじゃないんだって。彼女はきっと……」
 少し真実を説明しようとして、ボクは口ごもってしまった。
 なぜなら、あの時の出会いをこの市原に説明した瞬間、それは陳腐なナンパ話に色褪せてしまいそうな気がしたのだ。
 だが、あれは断じてナンパなんかじゃない。なんというか…… 神の差配なのだ。だから、それを無暗に口にすることは神と彼女への冒涜ですらある。
 ボクは急に言葉を失った。

「きっと何だよ。勿体ぶらずに教えろよ」
 焦れた市原が食い下がる。だが、もう何も言う気はない。
「そうだな…… じゃあ、今度会ったら聞いとくよ」
「なんだよ、勿体ぶりやがって。
 あーっ! なんか訳ありの子か⁉ 危ない系とか?」
「……」
 この挑発にも乗らず知らん顔を通しているとさすがに市原も諦めたか、まったく、わけわからんぜ、と言い残し仕事に戻っていった。

 市原が立ち去った後、ボクはホッとしつつも改めて思った。

 ボクは彼女のことを何も知らない。

 その事実を思う。よくよく考えるまでもなく、名前も知らない女性と同居しているというのは確かに変だ。異常だ。おかしい。普通じゃない……
 ただ、だからと言って、ボクにはそれが不安でもない。不思議なことに、知らなきゃなんだよ、くらいに思っている。
 彼女はボクの目の前にいる。いつもいる。ただそれだけだ。そして、彼女が誰であろうと、例えば異界から束の間やってきただけの、文字通り朧な存在だとしても、ボクは一向構わない。そう断言できる。

 正直、これまでボクは誰かに打ち解けたことがない。誰かに対してありのままの自分でいたなんてこと、ただの一度だってない。それが生まれながらのことか、何かきっかけがあってのことか、今となっては理由も定かではない。
 だが、とにかくボクはいつも心の在り処を偽り、隠し、しばしば思っていることの正反対を口にする。リーダーの筒井さんは言うに及ばず、同期の市原にですら、面と向かうと無暗に緊張し、手のひらにじっとり汗をかいたりする。他人には人を喰ったような態度に見えるらしいが、ホントはその場を一刻も早く立ち去りたい、部屋に帰りたい、なんてことをいつも思っている。

 なのに、そんなボクが彼女に対してだけ、ふっと気持ちを緩ませている。取り繕うことなく、自然のままの姿でいられる。会話だって必要ないかもしれない。彼女の存在を感じるだけで、ボクの心はあるべきところにある、って感じになる。このままでいたい、いつまでもずっと横にいてくれないか、なんてことを願ったりしている。ボクにとって彼女は、もう、そんな特別な存在になっているのだ。

 だから、このまま何も知らなくても構わない。彼女がどこの誰で何をしているかなんてことは関係ない。だって、彼女のことをもっと深く知ったところで、ボクの中の何かが変わるわけでもない。

 人と人が知り合って、そして関係を深めるって事の中に、もっと相手のことを知る、ってことがどうしても必要なのかな? 知らなければ彼女のことが誰よりも必要で、ずっとそばにいて欲しいと願ってはいけないのかな?

 どうなんだ? ……

 ボクは彼女のことを考え始めると、こんなふうな堂々巡りに陥ってしまう。名前も知らない彼女にホッと気持ちが緩む自分……やっぱり変なのかな?
 でも、どうしてもボクは彼女といたいのだ。誰からも理解されなくていい。ただひたすら、このまま、彼女と一緒の時間が続けばいいのに。そう願っている。

 好きなんだよ、それほど…… 

 心の中ではとても素直にそう思う。




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