慎哉と一花と堅、そして流香

 口髭を貯えた男がショッピングモール内のシネコンを出たところでスマホを取り出した。

「ケン? 今どこ?…… あっ、そう」
 男は一瞬スマホから耳を離し、肌の露出が過ぎる隣の女に声をかけた。
「こっちに来てる、ってさ」
 女は今見た映画のパンフレットをめくりながら小さく頷いた。
「じゃあ、どうしよう、マックにでも入る?」
 男が再びスマホに呼びかけると、隣の女が即座に嫌な顔を向ける。男は、そうだ、彼女はマックが嫌いだった、と思い出し、場所の指定を直ぐに取り消した。
「ママがマックはダメだって。じゃあ……」
 目についた中華料理店の名を言いかけたところで、男は流香と堅の姿を正面の通路に見つけた。ふたりも男に気づいたようで、堅が駆け出した。
 だが、流香は右手を少し上げただけで翻って反対側に歩き出してしまう。
「いいの? 追いかけなくて」
 肩を丸出しにした女が男に無表情に問いかける。
「うん、いいよ。あいつは誘ったところで一緒にメシなんか食べるやつじゃない」
 男もさほど気にする様子はなく、駆け寄ってきた男の子の頭を撫でた。だが、視線はそのまま少女の後ろ姿を追っている。そんな男に、ミニスカートの女はあからさまなため息をついたが、男はそれを無視し、通路を去る娘の姿をその場で見送った。
 やがて少女の後ろ姿が下りエスカレーターの向こうに消えると、三人はようやく歩き出し、シネコン前の中華料理店で順番待ちの列に並んだ。

 十五分ほど並びようやく入り口近くの待ち椅子に辿り着く。そこに座って係員から名前を呼ばれるのを待つ間、男は通り過ぎる人の流れを追いながら昔のことを思い出していた。堅の隣に座る一花いちかが、『十歳違いの母親なんて授業参観の時浮いちゃうじゃん』、そんな言葉で会話を遮った日のことを……


 あの頃、伊勢原 慎哉はまだ会社勤めをしていた。名の通った会社の管理職で円満な家庭。誰もが彼を幸福な男と思っていたはずだが、なぜか彼は社内の若手を引き連れて夜毎飲み歩くような生活に明け暮れるようになる。
 そんな彼が佐々 一花と知り合ったのは、東口の繁華街をドン詰まりまで進んだ場末のバーでのことだった。
 その店は、午前零時過ぎまで付き合う連中と最後に訪れるような店だったから、慎哉も酔っ払って前後不覚ということも多かったのだが、酔うほどに陽気になる酒癖のおかげか、店の者や常連客との折り合いは良かった。一花は、やはりその店に通ってくる同世代のサラリーマンの連れだった。

 彼女はサラリーマンの不倫相手に見えた。上司と部下にしては馴れ馴れしい、恋人同士にしてはよそよそしい。つまり、見る者に妙な距離感を感じさせるふたりだったのだが、いつの頃からか男の姿が消え、彼女はその店にひとりで来るようになった。
 男は? と聞くと、北海道だか九州だかに転勤になったと言う。彼女の口から詳しい理由が語られることはなかったが、やがて、なるほどと思わせる噂が耳に入ってくる。だが彼女はいつもと変わらずその店にやってきた。そして気がつくと、一花は彼の飲み友達になっていた。

 彼女は場末の店に慣れた子だった。カウンターの中の人間とも親し気で、水や氷が足りなくなれば勝手に取り出して来るようなところがあって、それが嫌味なくサラリとできる。そんな姿を見ていたからか、彼女はきっと店の誰かと付き合い始めたんだろうと、慎哉は勝手に思い込んでいた。

 そんなある日、彼女から子供ができたと打ち明けられた。身に覚えのない慎哉は、例の男が消えて時間も経っていたし、見た感じ、彼女に身体的な変化を見いだせないこともあって、これもまた彼女のつまんない戯言だろうと聞き流していた。それまでも一花は自分は孤児だとか、おじいちゃんは誰かに恨まれて殺されたとか、そういう意味のない、彼女にとって何ひとつ得をすることのない話題を提供していたから、この話もその場限りのいい加減な嘘のひとつだろうと思ったのだ。

『信じてない?』
『いや、信じるとか信じないとかじゃないけどさ』
『じゃあもういいや』
 一花は聞く気がないならもういい、というように話を打ち切ろうとした。
 そういわれると慎哉も気になる。
『誰の子?』
 慎哉は思ったままを口にした。
『さぁ、誰だろう』
 こんな言い方をすれば自分を貶めるだけなのになぜか彼女はそういう言い方をした。慎哉にすればニ十歳近くも年の離れた一花はただの不思議な女性に過ぎず、もっと自分を大事にすればいいのにと、その当時は少しお節介な感想も持っていた。
 ただ、彼女は言葉とは裏腹にとても澄んだ瞳をしており、知らず知らずその瞳に吸い込まれるようなところがあって、慎哉には何の覚悟も、意志も、下心もなかったが、いつの間にか彼女の話に身を乗り出していた。

『相談があるなら聞くよ』
『別に相談はないよ。たださ、産んだらどうなるのかなぁと思ってさ』

 下ろす金を貸してくれ、両親を説得するので恋人役をしてくれ、くらいの話だと思っていた慎哉は、女の意外な言葉に興味を抱いた。

『下ろす、って選択肢はないの?』
『うん。下ろすって殺すってことじゃない? そんなことできないよ』
 女ははっきり答えた。

『産む、ってこと? でも、産むのは簡単だけど、育てる、ってのは難しいかもなぁ。ひとりじゃ大変じゃないか?』
 彼が言えたことはこんな月並みなことだけだった。娘を育てることに慎哉が貢献したことはそれこそ皆無だったのだから、この程度のことすら何の説得力もないのだが、なぜか一花は納得したとでもいうように深く頷いた。

『そうだよね。わかった』
 何がわかったのだろう? そのあまりの判断の速さに、慎哉は目の前の二十歳近く年の離れた女を放っておいていいのかどうか迷い始めた。みすみす誰かが不幸になることを見逃して平気なほど、慎哉は悪人でもなかったのだ。
『本当にわかったのならそれでもいいけど……』
『じゃあ、どうしたらいいと思う?』

 ……

 慎哉は、その数カ月間後、覚悟の結果として産まれてきた堅という名の血のつながらない息子と、流香という血のつながりはあるが捨ててしまった娘のことを同時に考えた。だが、結局、自分の手ではふたり両方を幸せにしてやることはできない。いや、片方ですら幸せにしてやれているかどうかも疑わしい。もっと言えば、一花だって幸せかどうかはわからない。いや…… 自分こそ幸せから最も遠い位置に逃げ出したように見える。だとすれば彼や彼女が自分の傍で幸せになんかなれるわけがない。


 堅が不思議そうな顔で父親の顔を見上げた。輪郭も、造作のひとつも男には似ていない。だが、雰囲気だけはどこか似ている。
「ん? なに?」
「おねーちゃん、今日もさよならって言わなかったね」
「あ~、きっとさよならって言うのが嫌いなんだろ?
 ケンの学校だとお別れの挨拶は何て言うの?」
「先生さようなら、みなさん、さようなら、だよ」
「へぇ~ パパはみなさんごきげんようって言うのかと思ってた」
「え? あなたそういう学校の出身なの?」
「冗談に決まってるだろ」
「だよね。あんな田舎にそんな学校なんてあるわけないもの」
 一花はさもバカにした感じで笑った。そう笑われると、男も嫌味の一つも返したくなる。
「さすが、お嬢様学園出身者は違うね。どこだっけ?」
 一花は男を完無視して再びスマホに目を落とす。それを不思議に思ったのか、堅が母親の顔を覗き込んで質問した。
「ねえ、どこ?」
 返ってきたのは返事ではなくゲンコツだった。

「次にお待ちの…… サッサさ~ん、三名様、ご案内いたしま~ス」
 中華料理店の店員は流暢な日本語で名を呼んだ。佐々という名にいつまでも慣れない慎哉は、いつもの妙な感覚に囚われながら、息子の背中をポンと押して店の中に消えた。




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