
もし、自分の息子が甲子園に出て、26-0の大差で敗れ去ったとする。その敗者インタビューで、彼が「先ず、応援してくれた皆さんに感謝したいと思います」と述べたなら、ボクはその後ろ頭を思い切りどつくだろう。今はそこじゃない。今、お前が言うべきは、その悔しさと無念と、次に向かう覚悟を誓えと言うだろう。感謝はあとだ。それは勝者が驕り高ぶらない戒めとして口にする言葉だと……
昨日、ある記者会見があった。その人は最愛のふたりを失って会見に臨んだ。
彼が真っ先に口にしたのは、やはり周囲への感謝、謝辞だった。
ボクは強い違和感を感じた。感謝など口にしなくていい、もっと怒れ、この理不尽に、我を忘れて恨みをぶち撒けろ、そう思った。
何かを表明するとき、周囲を慮る風潮が強くなった。それは一面で社会の成熟を示しているのかも知れない。徒に感情の昂ぶるままに振る舞うのは、非理性的なことなのかもしれない。
だが、理性を圧し殺すべきではない瞬間も確かにあるはずで、最愛のふたりを失った最初の言葉が感謝ではいたたまれぬではないか……
怒りを持って戦え。屈辱を味わった敗者と、理不尽に打ちのめされた被害者には、そうする権利がある。