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2019.04.24

日曜日の真夏と思しき暑さから、昨日は一転早春の冷え込みに逆戻り。さらに今朝は風が強く冷たい雨まで降りだした。結局、また厚手のシャツを引っ張り出して着る始末。まったく落ち着きのない春だ。











最近、ニュースを見ていて、このニュースを提供した人にあったのは義憤だろうか? それとも私憤だろうか? そんなことを思うことがある。例えば、昨日頻りに流れていたローカルニュースは「修学旅行を引率した高校の校長が酒蔵で利き酒をした」というもので、率直なところ、それで? と話のオチを待ってしまった。だが、ニュースは酒を飲んだ、という事実を伝えるだけで、その結果だれがどうした、という続きはないようだった。

いやいやいや飲酒はまずいっしょ? 生徒に何かあってからでは遅いっしょ? そもそも引率責任者が酔っぱらってどうリスク管理するんですか? そう目を剥いて反論されそうだから何も言わない。だが、何も言わないが内心ではちっとも納得していない。

ハイハイ、そりゃそうでしょうとも。でも、そのリスク管理できない校長をやり玉に挙げて、頭を下げさせて、リスクは軽減されるんですか? 飲んだ、ということを論ったところで、この手の話はなくなりませんよね? そう思ってしまうのだ。

もちろん、ボクはこの校長に縁もゆかりもないし、むしろ日頃から、教師なんてどーしようもない種族だと蔑んでいるくらいだから彼らの肩を持つ気はない。
持つ気はないが、センセ―、そらダメですわ、程度で済む次元の話を、マスコミを通じて、教育委員会を通じて大事にしてしまう社会の仕組みに、やりきれない息苦しさを感じてしまうのだ。

それはちょうど小学校の学級会で、「センセ―、〇〇クンはお掃除時間にほうきでずっと遊んでいました。いけないと思います」の類に似て、そりゃいかんことだが、だから何?って気にさせられたのと同じなのだ。いい大人なら、この糾弾にちょっとした違和感を抱かないだろうか? 確かに〇〇クンは悪いが、みんなの前でそれを……ねえ みたいな感じ。
いやいや、ルールだから守るのが当然で、守らないほうは言われて当然なのよ! 今のPTAさんはそんな風に言われるのだろうか?

だが、それが息苦しい。そんなわかりきった悪を、悪は悪だが何ほどのこともない悪を、なぜ善なる人が真正面から寄って集って糾弾しようとするのだ? このくらいのことは、クラスの中のシュッとした女生徒が、〇〇クン、ちゃんとしなよ!と一喝すれ済む話なのに。そして、このシュッとした女子には、いくら腕力で勝ろうと、男の子の誰も反論しないし敵わない、って暗黙の了解があったはずなのに。

だが、今は違う。人の小狡さを見て悔しい許せないと思うと、いつの間にかそれは義憤に転じ、私憤と義憤が混然とした恨みになり、むしろ義憤の匂いを帯びる分、正義の観念も加わった鬱憤晴らしがまかり通ってしまっている。例えるなら「みぎわさん」みたいな子が、これはイケナイことです!といいながら、その理由は私が損をしているから、というような感じがして仕方ない。

もし告発のすべてが義憤なら、なぜ世の中のもっと深刻な差別や矛盾がなくならないのだろう? 飲酒校長を駆逐しても、なぜ未だに破廉恥な教師はなくならない? つまり、世の中の義憤らしきものはちっとも世の中のためにはなっていないんじゃないか? 義憤を隠れ蓑にした私憤だらけの世の中は人々を萎縮させ、孤立させ、さらには被害者意識を醸成させ、より深刻な悪に転じることになっていないか?

「〇〇クンはおかしいと思います!」
おかしい?…… 世の中、おかしいやつらだらけじゃん? 

数十年前、そう言われ続けた〇〇クンは、今頃きっとそんなことを考えているんじゃないか? 反省など…… してないと思うけどなぁ(^^ゞ