2019.06.24
日本語の曲を嫌う理由は、歌詞を理解しようと頭が勝手に動き出してしまうからで、曲は単に音を楽しむものではなく、意味を具体的に伝えようとするチカラに変わる。そこがちょっと面倒で煩い感じになる。英語の曲も単語のひとつひとつは解ってしまうことがあり、考えようによってはこっちの方がもっと厄介かもしれないが、ボクの英語力だと全体を通すと意味不明になることが多いので途中から頭が動きを止める。結果、人の声も楽器の一つに変容してしまうから、比較的落ち着いて聞いていられる。
フランス語もところどころ文字が浮かんでくるが、意味は大抵伝わらないし、そもそも発生音の美しさが際立っていて、聞き流して心地よい。
その他の言語はほとんどチンプンカンプンなので、純然と音を楽しむものになる。むしろ、この音階だとこの詞はどんなことを伝えたいのだろうと勝手な想像を楽しめる。まさに、音楽の文字通り、音は楽しむものとなる。
言葉は音である限りは心地よいが、意味形象として現れると非常に煩わしい。疲れているとそこから遠ざかりたくなる。
例えばこの宇多田の曲。昨日、歩きながら聞いていたラジオから偶然流れてきた曲だけど、あっという間にこの曲の持つ日本語の世界観に囚われてしまった。なまじ日本語がわかるばかりに、その世界観が勝手に入り込んでくる。昨日はちょっと頭が疲れ切っていたので、あ~ぁ、と思いながらも聴いてしまう。聴き入ってしまう。その世界観と宇多田の才能には惚れ惚れするが、せっかく頭の中を開放しようとして出かけたのに、たった一曲であれやこれや次々に想念が湧いてくる。一旦それに付き纏われると、あとはもうなすがまま。暴走する想念の世界に流されるだけだ。
じゃあラジオなんか聞かなきゃいいのに?
それはそうなんだけどね(笑)