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2019.07.18

今日から人に会う時間が増えそうだ。どんなことを言われるんだろうか。不安より反応を見る楽しみの方が勝っているかも。

ほとんど引きこもりの数年間だったが、やっぱりボクの根っこでは人を拒絶してはいない。人前で喋ろと言われれば何時間でも喋れるだろうし、相手の話に耳を傾けながらコミュニケーションを構築することもさほど苦ではない。その相手が初対面であればむしろ好ましく、相手のことを想像しながら、この人はこんな人なんだろうな、などと探りながら話をすることは今でもどうやら好きらしい。

では一体なぜ、対人交渉を嫌ったかというと、あの頃のボクは対人的な関係のすべてに疲れ果てていた、ってことなんだろうか。
もっとも身近な存在とすら真にわかりあえないなら、他は推して知るべし、ってな投げやりな気分に支配されたのだろう。

人との関係などというものはすぐに陳腐化するものだ。関係が積み重なれば互いの了解事項は増え、関係は安定する一方で、相手への先入観も出来上がる。あー、この人物にはこんなふうに思われているんだろうな、こんな役割を期待されているんだろうなと関係を先読みし、なるべく相手の期待する自分であろうとしてしまうことに疲れたのだ。
そんな相手がどんどん増えて、あっちにもこっちにもボクのことをちょっとだけ知っている人がいて、そういう人に取り囲まれて、そのひとりひとりにそれぞれ別の顔を見せることに疲れたのだ。

ボクは対人的には常に受け身だ。わがままだが人に気を遣うわがままだ。素のままの100%の自分であったことなどない。ある人の前ではこんな人物を演じ、また他の人の前では違う人物を演じてしまう。だが、演じようとしても、そんな借り物の姿は所詮は破綻するもので、本来なら破綻したままの自分こそが自分本来だと受け止めればいいのだろうが、ボクの妙なプライドはそれを許さず、相手の期待する自分でいられないならその人の前から立ち去ろうとした。結局、誰一人に対しても完璧な自分ではいられないから、挙げ句には隠棲生活に逃げ込むしかなかったというわけだ。

だから、初対面に人間に会うことはまったく苦痛ではなく、むしろ楽しみだ。まっさらの状態だから、この人あの人を区分けする必要もない。ただ純粋に目の前の人に相対すればいいだけだ。
そして、その人の言葉を聴き、受け止め、その裏にはどんな思いが隠されているのだろう、そんなことを思いながら人を観察すれば良い。それはボクの趣味のようなものだから、実は笑いが止まらないほど楽しいことでもある。

そして、これからはそこをもう一歩深めてみようと思う。目の前の人の思いの裏側を考えるだけでなく、その人がボクに求めるものを今度はより積極的に実現してやろうと思う。働きかけてみようと思う。受け身ではなく能動的に、これがあなたの必要としていることですか?と投げかけてみようと思う。
10年前にボクがやってみようと思った新しい事業に一番欠けていたものは、この「人が実現しようとしているもの」を考えず、独善に陥ったことだろう。人はこんなふうに思うはず、思うべきはず、という思い上がりがあって、計画が表層的に過ぎた、ってことなんじゃないだろうか。

どんなことが起こるのかそれはわからない。許容されるかどうかも不明だ。でも、とにかくやってみよう。
もう一度やってみたくなった、その時期だと思った、この気持ちを忘れずにいようと思う。