御堂筋線

 また同じ夢を見ている。
 夢と知りつつ見続けている…… ボクは高架を走る電車の中にいる……

 車窓から一瞬、高速道路が真下に見えた。
 だが、瞬く間もなく後ろへ飛び去る。

(どこだ? あぁ御堂筋線か……)

 景色に見覚えはない。  だが、ここは間違いなく御堂筋線だ。ボクはそう確信する。

 ドアの両脇に、数人の乗客が立っている。他の客は横並びの座席に、隣と半人分の隙間を開けて座っている。その大半は目を瞑るかスマホに目を落とし、誰も目を合わせようとしない。無表情な顔、顔、顔。いつもの通勤電車と同じだ。違うのはここが御堂筋線ということ。

 駅に止まる。知らない駅。でも、きっとあの駅だ。
 数人の乗客が乗り込んでくる。

 その中のひとりが、ホームと反対側のドア付近にまっすぐ進む。
 後ろ姿に見覚えがある。

(…… 琴乃?)

 小柄で細身、ショートヘア、ピンと伸ばした背筋
 それと、あの写真で見た白のシャツ姿。

(御堂筋線なら琴乃がいてもおかしくないか……)

 しばらく、ボクはぼんやり彼女の仕草を眺める。

 バッグからモスグリーンのスマホを取り出し、画面を見ている。
 ためらいがちに指先を滑らし、ふぅ…… とため息をつく。
 ものの数分もするとまた液晶を覗き込む。
 また、指先で画面をなぞる。そしてため息をつく。

(こんな感じだったんだ……)

 ボクは彼女がスマホを触っている姿を見たことがない。彼女から送られてくる数々の言葉は知っているけれど、彼女がどんな状況で、どんな姿で、それを紡ぎ出したのかを知らない。まして、その時々に、彼女がどんな気持ちでいたのかなど、想像すらしたことがない。

(琴乃、ボクはここにいるのに、気付かないんだね)

 あの後ろ姿は間違いなく琴乃だ。だが、ボクも目の前の琴乃が琴乃だと思っているだけで、本当に琴乃であるのかどうかは確かめようがない。芸能人の誰かに似ていると言っていた。そう言われると嬉しいとも言っていた。でも、ボクは事の真相を知らないままだ。

 ボクは急に琴乃の実在に近づきたくなる。肩に触れ、声をかけ、正面から向き合い、その顔かたちを見、息吹を肌で、鼓動を手のひらで感じ、生身の存在として確認したくなる。そう思うことは決して許されないことではないはず。ボクたちは恋人同士だ。実在を知らなくても恋人だ。だから、偶然彼女を見かければ、普通の恋人同士がするように、何気なく声をかけ肌に触れながら接したとしても何の問題もないはずだ。

 ボクはふらふらと立ち上がる。

 彼女はまだスマホを覗き込んでいる。

 ボクが声をかけたら、彼女は驚くだろうか? 喜ぶだろうか? ボクと気づくだろうか?
 これまでなぜ会いに来なかったと泣くだろうか、こんなにも会いたかったのにと人目もはばからず抱きついてくれるだろうか……

 立ち上がったものの、ボクは一歩が踏み出せない。

 彼女はまたため息をついた。

 急がなきゃ…… 彼女が数駅先で降りてしまうことはわかっている。そこから歩いて十分の場所にあるオフィスに入ると、ボクはまた彼女を見失う。存在しているのかどうかわからない時間が始まる。だから急がなきゃ、急がなきゃ……

 ボクは彼女に向かって足を踏み出した。
 彼女はそれと気付かぬまま、窓の外を眺めている。

 なんと声をかけようか……
 いきなり肩に手をかけると怖がらせるだろうか、こんな時、どんな言葉? 文字? がいるのだろうか? 
 ボクたちには文字しかなかったから、何万文字、いや何十万文字もやり取りしてきたけど、今この時ですら、文字で伝えなきゃ伝わらないんだろうか?
 ただ抱きしめただけでは、ボクは彼女にとってボクではないのだろうか?

(ボクたちは恋人だよね? ねえ、琴乃……)

 近寄ろうにも声が出ない。肩に触れようとするが手が出せない。ボクは彼女の斜め後ろに立っているのに、彼女はまるでボクの存在に気づかない。その他大勢の乗客と同じように、いてもいなくても、誰かと置き換わっても、なんの痛痒も感じることのない存在でしかない。

(琴乃、なぜ気が付かないんだ)

 ボクは咳ばらいをしてみる。何かを感じてくれるよう祈りながら、二度三度繰り返す。

 彼女が後ろを振り返る。だが、視線はボクの足元あたりを見ていて、ボクの顔を見ようとしない。それが通勤電車内でのマナーであったとしても、今はボクを見るべきなのに。

(ダメだ、彼女もボクの顔かたちを知らないんだった)

 いったい全体、この六か月間は何だったのだ。普通の恋人たちが最初の段階で踏むべき手順をまったく踏むことのなかったボクたちは、今になってそのツケを払わされているとでもいうのか?

 そんなことを考えても仕方がない。現に、ボクは彼女に恋しているのだから。「琴乃」って名前すら、それが本当の名前でないことを知っているのに、それでもボクは彼女を恋人だと思っているし、彼女に対するどうにもならない感情に支配されているのだから。

 耐えきれなくなったボクは、思い切ってさらにもう一歩踏み出す。ふわふわした感じがする。喉がカラカラに渇く。それでも、今しかない、彼女を翻意させるとしたら今しかない。現実世界に戻ろうとしてる彼女、ボクとの空虚な関係に終止符を打とうとしている彼女を翻意させるなら、今しかない。彼女の肩を掴め、そして振り向かせ、ボクは目の前にいる確かな存在だと伝えるのだ。何万字の文字ではなく、身体の温もりで伝えるのだ、伝えるのだ……

 ボクは踏み出した。最後の勇気を振り絞り、彼女のすぐ後ろに立ち、彼女の左肩に手を置く。


 その手がするりと彼女の身体をすり抜けた…… 彼女は何ごともなかったように再びモスグリーンのスマホを取り出し、誰かからのメッセージを読み始める。それは明らかにボクからのメッセージだよ。その本人がここにいるって伝えようとしているのに、琴乃、なぜキミは気が付かないんだ!

 ボクは彼女の肩を掴もうと、もう一度手を伸ばす。その瞬間、彼女が振り返る。ボクの目を見る。

 その顔には…… 恐怖、失望、落胆、後悔、憤怒、不愉快、そういうありとあらゆるマイナスの感情が浮かぶ。ボクは伸ばした手を所在なくだらりと垂らしてしまう。

 ボクはこんな表情を確認するために勇気を振り絞ったわけじゃない。愛する彼女と普通の恋人になるために近づいただけだ、肩に触れようとしただけだ、なのに気づかない。それどころか、ボクの気配に彼女は怯えてしまう……

 ボクはすべての存在を否定された気持ちになる。そして、彼女を無理にも振り向かせようと通行中の電車のドアに押し付ける。すると彼女は、するりとその扉から半身を外に出し、ボクから逃れようとする。

「危ないだろ!」

ボクは指先にぐっと力を入れて、彼女を抱きとめようとする。

「危ない!」


 目が醒めた…… ボクは出張先から戻る新幹線の中にいる。不愉快な目覚めだ。窓からの強烈な日差しを受けたままだから、息苦しくさえある。

 もうすぐ終着駅だ。いくら寝ていても、この駅の間際になると自然に目が覚めるのはなぜだろう。本当は寝ていないからかもしれない。夢だと知って見ているから醒めるのかもしれない。夢だと知っているから、いつかは現実世界に戻らざるを得ないから、逆に安心して夢を見るのかもしれない。

 ボクは他の乗客とともに列車を降りると、地下鉄への乗り換えのために改札口を出た。