辻褄の合わない現実

 彼女の声を聞いてからというもの、琴乃はボクにとってもはやネット世界の住人ではなくなった。彼女はもともとボクの恋人で、今はたまたま離れ離れでいるけれど、いつかは当たり前に抱き合って、肌を重ねて眠るのだ、そう思うようになっていた。

 だが、週末は必ずやってくる。ふたりの関係は普通じゃないと思い知らされる週末が、彼女の家人を連れてやってくる。以前は月に一度だけだった家人の帰省がなぜか毎週になり、無言でボクたちふたりの間に立ちはだかる。
 それでも彼女は買い物だとか、美容室だとか言い訳を作っては外出し、その行き帰りには決まって電話をかけてきた。平日のように深夜遅くまで話すことはできないが、それを埋め合わせるように、彼女からのメッセージは以前よりずっと頻繁に届くようになった。

 ボクは、ボクとの時間を最優先する彼女が気にかかった。家人との同居に耐え難い時間を過ごしているのではないか? ボクへの気持ちを抑え難く、家人に嫌悪感を抱き始めているのではないか? そんなふうに苦しむ彼女を想像するようになっていた。だからその日、ボクは彼女の気持ちを宥めるつもりと、少しばかり確かようとする気持ちでこう切り出した。

「琴乃、大丈夫? 無理してない?」
「うん。大丈夫。ムーちゃんとお話しできるから平気だよ」
「でも家の人もいるんだし、無視するわけにもいかないでしょ? 家の人とはどんな話するの?」
「あまり話はしないよ」
「だってご飯一緒に食べたりするんでしょ?」
「うん。静かに食べてる」
「自分の部屋にすぐ閉じこもったりすれば、何か言われたりするでしょ?」
「疲れたって言うとそっとしておいてくれる。昔からそうだから」
「へえー、変なの… ボクなら許さないけどね。
 愛のない夫婦なの?」
「…… どうだろう。大事にされていると思う」

 ボクは一瞬、自分の耳を疑った。大事にされている…… 想定になかったその言葉に、ボクは思わず耳からスマホを離していた。
 心のどこかで彼女の結婚生活はすでに破綻していると決めつけていた。愛のない結婚生活、惰性か世間体か、そういう煩わしいしがらみだけが残っている関係に違いないと思い込んでいた。彼女が使った「大事にされている」という言葉は、一瞬でボクから冷静な思考を奪い去ってしまった。
 家人との不自然な生活に耐えきれぬ彼女、そう思うから、これまでのこと全てに辻褄が合った。だが、家人の愛がなくなったわけではないと言わんばかりの彼女の返事は、ボクには辻褄の合う話として聞くことができなかった。
(ただ揶揄われていたに過ぎないのか……)
 そんな屈辱的な気持ちが愛しさに置き換わる。
 ボクは努めて平静を装ったが、それ以上会話を続ける気力が急激に萎えてしまっていた。
「今週末も帰ってくるんでしょ?」
「うん」
「最近多いね、帰ってくる回数が」
「そうだね。…… ごめんね」
「ごめんといわれても……
 疲れたな、もう寝ようか」

 会話を打ち切ろうとした。猜疑心と嫉妬心だけが沸々と湧き起こる。これ以上会話を続ければ、どうしようもない自分を曝け出すことになりそうだった。嫌な自分ではいたくない。会話を打ち切ろうとするのは、ボクが出せるギリギリのサインだった。

 ところが、彼女は引き留めた。

「どうして? まだ眠くないよ……」
「でも何を話したらいいの?」
「なんでもいいよ、ムーちゃんが好きなことでいいの」
「好きなこと? …… エッチなこととか? ハハハ」
「うん、ムーちゃんが話したければそれでいいよ」
 彼女は本当にそう思っているのだろう。彼女の言葉に嘘などなかった。一度もない。彼女は常にボクが優先で、ボクがしたい話を聞きたがった。ボクは、彼女を魅了する話をしている自覚がなかったから、そのこともかえって彼女への猜疑心を膨らませた。何か後ろめたいことがあるから、彼女はボクの好きなようにさせるんじゃないか? そう思ってしまうのだ。
 彼女の現実には、他の夫婦と同じような休日があって、それを彼女も大切にしているのではないか。ボクとの関係は、ひとり寝が寂しい平日の、ベッドサイドストーリー程度の意味しかないんじゃないか。そんなふうに思ってしまうのだ。

「琴乃とエッチがしたい……」
「うん…… いいよ」
 試してるだけだ。ボクは琴乃がどの程度ボクを好きでいるか、返事の仕方で試しているだけだ。
「…… 冗談だよ」
「冗談なの?……」
「冗談じゃなきゃ困るでしょ?」
「困らないよ! 
 ムーちゃん、私は会いに行くって前に言ったよ。その気持ちに変わりはないよ」
「琴乃、それはボクと手をつないで歩くって頃の話でしょ? 今は違うと思うよ」

「違わない!」

「ボクは抱くよ。なんの躊躇もせずに琴乃を抱くよ。
 今の生活を捨てて、ボクと一緒になるつもりはある?」
「…… 」

 今の生活を捨てる…… ボクはそこに力を込めた。ボクはさらに試したのだ。彼女を追い詰めたのだ。彼女の愛しているという言葉が何を意味しているかを試した。ボクと同じ意味なのか、それとも、言葉は空虚なままなのか、出会った最初の頃と何ら変わりなく、現実を伴わず覚悟のないままなのか、彼女を試した。

 そしてその賭けにボクは負けた。

「ほらね。琴乃は捨てられない。何一つ捨てられない。
 ボクを愛しているってどういうことなの? ボクの何がそんなに好きなの? ボクが語りかける愛の言葉が心地よかっただけじゃないの? 琴乃の気持ちが湧きたつような言葉をずっと話しかけるボクが平日の間だけ必要なんじゃないの? 本当は土日にボクは邪魔なんじゃないの? いいんだよ、本当のことを言ってくれても。もうボクは気付いてるんだから。琴乃は本当はボクと別れる準備をしてるんでしょ⁉」
 彼女からの返事が遅れた。いつもと異なり、どう応えるか、躊躇っていることが伝わる長さで遅れた。

「死ねない…… 」
「誰も死んでくれなんて言ってないよ‼」
「だって、ムーちゃんと一緒になった後の世界が何一つ私には見えないよ。
 ムーちゃんは私をずっと愛してくれる? 何度も何度も会いたいっていってるのに、それでも会ってくれない人が、本当にずっと愛してくれるの?
 ムーちゃんは私を放り出す。そして私は長い時間ひとりぼっちになる。
 生きていけない。ひとりぼっちでは生きていけない」
 ボクは彼女の正直な言葉に半ば驚き、半ば安堵した。
 彼女はわかっていたのだ。ボクが本当の意味では彼女を抱きとめていないこと、愛していると何万回口にしたところで、その愛は空虚なままで現実世界に根付いたものではないこと、結局、現実世界に根付かないこの恋は、空虚さの中にいずれ消えていく運命だということを。

「別れようか…… 」

 そう呟いていた。数か月間、彼女とのメッセージ、会話に圧倒的な時間を費やした。書き綴った文字数はきっと何十万、何百万字に及ぶだろう。しかし、それだけでは埋められない現実がある。愛の形、結実がどのようなものであるかは知らないが、最後の最後に求め続けられない関係など成り立つわけがない。

「…… いつもいつもそう」

 彼女は泣いていた。泣きながら恨めし気にこう語った。
「いつもいつも、ムーちゃんは私の気持ちを置き去りにする。
 私が考えていないことまで先回りして……
 ムーちゃんが言った言葉の意味を考えている間に勝手に結論を出してしまう。
 勝手よ。ムーちゃんは勝手よ。私の気持ちをどうして信じられないの? 私はムーちゃんが大事で、ムーちゃんのことしか好きじゃないって何度も言ってるのに、その言葉をどうして受け入れてくれないの? どうして?……」
 最後は泣きじゃくって聞こえない。
 でも…… ボクには言葉がない。もう彼女を引き留める言葉がない。




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