あの夜、私は不安でどうしていいかわからなかった。
少し前から、あなたが時々突き放すような言い方をすることに気づいてはいたけれど、それはきっと私の選んだ言葉が曖昧だったり、反応が遅れたりしたからだと思っていた。
そういう時、あなたは苛立つようになった。あなたが苛立つと私はとても不安になる。もうこれっきりメッセージが途絶えるんじゃないかと思い、居ても立っても居られなくなる。だから、あなたの返信を待たず、一方的なメッセージを続けざまに送ったことが何度もある。
でも、そんな時でも結局はあなたが笑ってくれて、もう怒ってないよってメッセージをくれる。それで安心できていた。
あの夜は違った……
「このまま話していても仕方ないから、今日はもう寝る。おやすみ」
そんなこと一度もなかった。あなたは私が深夜二時過ぎまでメッセージし続けても、明日の仕事は大丈夫なの? って言うだけで、私が寝るね、っていうまで、いつまでも付き合ってくれた。
インフルエンザで体調を崩したあとは、さすがに毎日二時は遅すぎるよ、できれば零時までにしようね、って言われたけれど、それでも、私がおやすみなさいと言うまでは、絶対にメッセージを打ち切ったりしなかった。
あの夜は違った……
「どうして? まだ十一時にもなってないよ?
まだ眠くないよ」
「うん…… だけど疲れた」
あなたはいつもとは絶対に違う。何かが違う。
「ねえ、電話していい?」
SNSに通話機能があることは知っていたけれど、ふたりともそれを使おうとしなかった。私はあなたが嫌うことをわかっていたから、あえて知らないふりをしてきた。でも、それも限界だと思った。
「嫌だ」
予想通りの反応だった。でも私はそうしなきゃもうダメになると思った。ムーちゃんとの関係は終わってしまうと思った。
「どうして? 私が嫌いになったの?」
「そんなことあるわけないじゃないか!」
嘘じゃないと思った。
「お願い。電話させて。声が聴きたい。
ムーちゃんと話したい」
我慢してきた気持ち、抑えきれない気持ち、どうしても直接伝えたい気持ちがあって、その夜は電話しなきゃもう死んでしまいそうなくらいな気持ちだった。
「だけど、声を聴くと会いたくなるから嫌だ」
「どうして……」
私はしばらく何も書き込めなくなった。
どうしてこの人は私を避けるのだろう? 何がそうさせるのだろう? 私には全然思い当たることがなかった。さっきも、週末は主人が帰ってくるけど、いつもどおり、できるだけ時間を見つけてメッセージするからね、って言っただけなのに。私の気持ちはムーちゃんにしかないことを伝えたかっただけなのに。急に機嫌が悪くなる。
私はどんな時だってムーちゃんのことばかり考えてる。家の人がいても、私は疲れてるから、と言い訳して自分の部屋に閉じこもるだけ。寝室はもうずっと前から別々だし、私が自室に引きこもると、家の人は決して邪魔なんかしない。だから、いつもどおりメッセージできるよ、っていったつもりなのに……
悲しくてメッセージする言葉が思い浮かばなかった。
「琴乃? 大丈夫?」
しばらくして、ムーちゃんから問いかけてくれた。まだ気持ちが切れていないことに少し安心した。
「うん…… 声…… 聞かせて」
「わかった。じゃあ、ボクから電話するね」
「……うん」
急にドキドキしてきた。願ってはいたけど、本当にムーちゃんが電話してくれるなんて、もう期待するのを諦めていたから。
それが実現する…… どんな声がムーちゃんなのか、それを思うだけで喉が塞がるほど緊張した。
ネット電話は雑音が酷かった。でも、そこから確かに聞こえてくる声がある。
「もしもし…… 琴乃?」
(この声なのね……)
初めて聞く声は、思っていた通りの優しさだった。穏やかで甘い声……
その声に名前を呼ばれた。ムーちゃんの前で私は琴乃でしかなかったし、メッセージの中で何度もそう呼ばれていたから、琴乃は私には本名以外の何ものでもなかった。
涙が出てきた……
声が聞こえている、そう思っただけで涙が止まらなくなった。
「…… もしもし」
「琴乃? 泣いてるの? ……
ごめんね、ボクが全部悪い……」
ムーちゃんはよくそうやって謝ってくれた。私が悲しむと、ボクが全部悪いと言ってくれる。
「ムーちゃん…… 嬉しい」
「ボクも嬉しい…… ハハ、泣けてきた」
何に不安な思いをしていたのか、もう全然考えられなかった。
実際の声が聞こえただけで、何万字の文字より、もっとずっと強いチカラで抱きしめられている気がした。
涙が溢れて止まらない。
「私はムーちゃんが好き。何もできなくなるくらい好き」
「わかってる」
「本当なんだよ。ムーちゃんのことばかり考えてるんだよ、わかってね……」
「うん……
声のチカラってすごいね。
色んなことがどーでも良くなった」
そう言ってムーちゃんは笑った。こんなふうに笑うんだと思った。いっぺんに笑い方を好きになった。
「……どうでもいいって何が?」
「琴乃がね、ボクのことを本当に好きなんだって伝わってくるから、もうそれだけでいいやって思ったってこと」
「本当に? 伝わった?」
「うん、ちゃんと伝わるよ。言葉がなくても伝わるよ」
「……嬉しい」
声を出して泣いていた。あなたに恋してから、ずっと切ない気持ちがあった。いくら好きになっても、結局受け入れられないのかもしれないという不安があった。私が好きになればなるほど、あなたが私を遠ざける感じがすることも気持ちを塞がせていた。
でも、あなたの声が聞けた。思った以上に落ち着いた声だった。しかも、私の声を聞いて、何も話さなくても伝わると言ってくれた。思った通りの優しい人だった。このまま包まれていたいと思わせてくれる温かみのある声だった。
「琴乃? 聞いてる?」
「うん、聞いてる」
「電話は互いを身近に感じさせるね。でも、できるだけメッセージのやり取りのままにしない?」
ちょっとがっかりした。でも、不安はなかった。
「いいよ。ムーちゃんがいいようにして」
私はムーちゃんが書いてくれるメッセージを読むのも好きだった。愛情に溢れているし、いつも大切にされてる感じがした。私はムーちゃんが関心のあることになら何でも興味が持てた。精神世界のことはもともと興味があったし、音楽はすっかり趣味が一緒というわけではなかったけど、ムーちゃんの選ぶ曲は私の好みにはちゃんとあってた。
翌日、家に帰るとしばらくはいつも通りのメッセージだったけれど、いつのまにか電話に変わっていた。そのまま、深夜遅くまで電話で話をした。
その翌日も電話した。ムーちゃんも、もう何も言わなくなった。
あの頃が一番楽しかった。いつかきっと、ムーちゃんの言う、神が決める日がやってきて、私たちは必ず会えると思っていた。
あの頃は…