引っ越しのたびに、この大きな写真をどこに飾ろうかと悩む。
正面を向く新郎、ドレスの裾をあげ、足元を気にしてやや俯き加減の新婦。
教会内部の壁画を背景に、ボクと彼女がまさに人生への第一歩を踏み出すべく、誓いの場から階段を数段下りたところで撮影された記念の写真。大きく引き伸ばして、華やかな額縁に収められている。
聖堂は、今は焼失してしまった歴史的建造物。プロの写真家と念入りに打ち合わせし、祭壇からニ段下りたところで立ち止まり、こっちを見てくださいねと言われていたにもかかわらず、彼女はさらにもう一段踏み出してしまった。撮影の瞬間、カメラマンの失望した顔を思い出す。
ところが、この俯き加減が新婦の初々しさを感じさせると意外にも評判がいい。新居を訪ねる人が口々に褒めるので、彼女はもちろん、ボクも悪い気はしない。ついには、この大きな写真を来客が座るソファーの位置に合わせて、その正面に飾るのが決まりごとになった。
「その出窓の横? それとも反対側のこっち? どっちかな……」
ソファーの位置を決めると写真を掲げる位置は自然に決まるのだが、最近では逆に写真の位置が決まってようやくソファーの置き場所が決まる。こう毎年毎年引っ越しをさせられると、いい加減どうでもよくなるものだし、もう新婚でもないだろうにとボクは思うのだが、彼女は常に熱心だ。今回もあれこれ試して、さっきようやく決まった。
新しい部屋をひととおり見渡して、うん、と彼女は小さく頷いた。桜並木が見渡せる東寄りのベランダに出てみる。最上階のベランダにさっと風が吹き抜けて、彼女の長い黒髪を程よく揺らした。
「ここ、いいでしょ? なんとなく。
桜並木、時期が来ればキレイだろうなぁ……」
今は葉桜だが、花咲く頃には上水沿いの桜は確かに美しいことだろう。
中央線から小さな私鉄に乗り換えた一駅、そこから線路沿いを十分弱戻った場所にそのマンションはあった。
「うん。でも電車の音がきっと煩いよ」
「そう? でも私は好き。こういう感じ」
ここは彼女が決めてきた。義姉夫妻の住むマンションから近すぎず遠すぎず。確かに周囲の雰囲気は問題ない。だがボクはやや気に入らない。とにかく通勤に不便なのだ。
「ねえ、行きは電車でもバスでも使って自分で行くからさ、帰りは遅くなったら国分寺まで迎えに来てくれる?」
コンビニで買ってきたばかりのビールを手渡しながら、ボクは妻のマーちゃんに交渉してみる。
「ハハハ、まだ一日も通勤してないのに、もうそんな弱音?」
マーちゃんは、受け取ったビールを開けながら、あかりが灯り始めた街並みを眺めている。
「だってさ、ここから駅まで十分歩いて、電車に乗ったと思ったらこの目の前に戻ってそれから中央線に向かうんだよ。なんか、すごい無駄を感じない?」
ボクはベランダから身を乗り出して、目の前を走る線路の行く先を視線で訴えかける。
近くには単線の離合場所があって、ガタゴトとゆっくり電車が動き始めたところだ。
「じゃあ、バスで行けばいいんじゃない?」
マーちゃんはマンションの目の前にあるバス停を目で指しながらボクに笑いかける。
「だけど終バスがないというか、本数が極端に少ないんだよ。
二十二時台とかあったかなぁ?」
一応合理的な理由も伝えてみる。
「早く帰ればいいでしょ」
仕事が忙しい、そういう見え透いた嘘は彼女には通用しない。新婚当初は仕事が終わると新宿か吉祥寺あたりでよく待ち合わせをしたものだが、最近ではふたりで出かける機会はすっかり減っている。
「う~ん、まぁね、できればね…… 」
「…… 何してんだか…」
ちょっと心苦しいところはあるが、後ろめたいことはない。実際、仕事が終わって自宅に直行みたいな生活は周囲が許すはずがなかった。そういう雰囲気だった。
「だって坂上さんがさ、いつまでも帰んないんだもん。坂上さんの奥さんは鶴川まで毎日送り迎えなんだって」
時々ふたりで遊びに行く上司の名前を出してみる。
「アハハ、あそこはなーんもないもん。送り迎えがないとムリムリ」
彼女が笑えばつけ入る余地はありそうだ。
「頼むよ、マーちゃん。ねっ」
ボクの左手は、いつものように彼女の腰のあたりを抱きかかえる。そして、首筋に軽く唇をあてる。
「…… ぶーちゃんはそうやってすぐに誤魔化す…… もぉ……」
決して豊かとは言えないが、ボクの右手は彼女の胸のどのあたりが敏感か、よく知っていて、そこへ一直線に向かう。
「ちょっと…… ビールがこぼれるから! ぶーちゃん…… コラっ……」
彼女の甘ったるい声は了解のサイン。
新婚? 四年目の六月、ボクたちは新しい生活をここで始めた。