ケイちゃん

 ケイちゃんは決してとびきりの美人というわけではない。成績だってそんなに目立った感じでもない。運動神経が良かったという印象もない。面白いことを言って人を笑わせたわけでもない。声が大きかったわけでもない。う~ん…… とにかく普通だ。

 普通だけど忘れられない。それがケイちゃんなんだ。


 小学四年生になると、そろそろ男子と女子は違うのだということが実感としてわかってくる。誰から教わるわけでもないが、女子は女子、男子は男子、そういう区分けが頭の中でできる。だから、女子とは必要以上に話すことも、一緒に遊ぶことも、まして、手を握ったりすることは絶対にしてはいけないことだと思っている。そうしないことが自然だと思い込んでいる。こっちのそんな気持ちが伝わるのか、クラスの大半の女子にボクは避けられた気がする。

 でも、

 ただひとり、ケイちゃんだけが例外だった。



 あれは半袖の運動着を着ていた頃だったから、一学期のプールの授業が始まる少し前だっただろうか。

 その日の体育の授業はポートボールだった。少しでも早く校庭に集合しなきゃいけないのだが、ボクは前の理科の授業で使った器具を片付けるのに手間取ってしまい、気が付いたら一番最後に教室を出る羽目になった。

 四年二組の教室は三階建て新校舎の一階で、着替えてすぐに飛び出せばみんなに追いつけるはずだったが、その日のボクはなぜか走って追いかける気にならず、ぼんやり中庭を歩いて校庭に向かった。
 そこに、後ろからダダダッって感じで追いかけて来る気配がする。きっとボクより後片付けに手間取ってしまったマヌケな誰かだろうと思ったが、その足音はボクの近くで急に速度を緩めた。

 と思った瞬間、ボクの右腕に誰かの腕がからみつく。ハッと相手の顔を見ると、

 ケイちゃんだ。

「な、なにっ??」

 ボクはなにをどう反応してよいやらわからず、ただただ呆然、唖然とするしかなかった。
 ところが、ケイちゃんはそうすることがまったく当たり前であるかのようにボクの腕にしがみついたままだ。そして下からボクの顔を覗き込み、いきなり訊いてきた。

「ポートボールって得意?」

「…… うん、まぁ」
「へぇ~ としクンは何でもできるもんね」
「…… うん、まぁ」

 ケイちゃんは笑うと目が線になった。笑うときっと何も見えてないよな、というくらい線になった。でも、そこが可愛かった。

「ねぇ、としクン、最近引っ越したの?」
「ん? いいや? なんで?」
「だって、昨日、うちの近くで見かけたよ。商店街の入り口のお魚屋さんに入って行ったでしょ?」
「あ~、あれは親戚のおばちゃんの家だよ。昨日はうちに誰もいなくなるから、そっちに行きなって言われただけだよ」
「な~んだ、そうなの? 今日から一緒に帰れると思ったのにぃ~」
「ケイちゃんちはあの近くなの?」
「うん、あそこからちょっと行ってお酒屋さんの角を曲がったところあたりだよ」
「ふ~ん」

 ケイちゃんとボクは腕を組んだまま、といってもそれは大人の恋人がするような組み方じゃなく、ケイちゃんがボクの右手を引っ張っている感じでしかなかったが、そのまま校庭までのわずかな距離を並んで歩いた。ちょっと恥ずかしかったけど……

 そんなボクたちをクラスの男子が見逃すはずはない。

「お~~~~~~~~~、何やってんだぁ~~~!!」
「できてる! できてる! としとケイちゃんカップルだぁ~!!」

 という話になり、数人の男子がバカ騒ぎし始めた。女子はしれっ~とした顔で見ている。
 その声が耳に入っていないわけでもないだろうに、ケイちゃんは知らん顔してボクの方に向き直り、

「今度おばちゃんちに行くときは一緒に帰ろうよ」

 そう言った。その時の笑顔は本当に目が線になっていて、その笑顔を見ているだけで不思議とこっちも笑顔になった。

 それだけ言うと、ケイちゃんはボクの返事を待たず、腕を離して女子が集まっている方に向かって走り出した。仕方ないのでボクも男子の方に走り出したが、なんとなく走るのが馬鹿馬鹿しくなり、途中で歩き始めた。



 翌週の火曜日、理科の時間のあとの体育の時間に、ボクはわざと遅れて校庭に向かったが、前の週のようにケイちゃんが走ってやってくることはなかった。
 その翌週もそんなことは起こらず、そのうち、体育は水泳になり、夏休みがあって、二学期が始まるとしばらくは体育館でダンスの練習。そのあと校庭で運動会の練習になり、そうなるとのんびり中庭を歩いて集合、なんてことが許される気配じゃなくなった。ボクもいつの間にかケイちゃんとのことを忘れた。



 やがて校庭の脇にある大きなプラタナスが枯葉を落とす頃、ボクはまた家の事情で魚屋のおばちゃんちに帰ることになった。おばちゃんの家はボクの家とは反対方向だけど、人通りの多い商店街の中にあって周囲は賑やかだし、なにより学校から近かったので、ボクとしては毎日でもおばちゃんちに帰りたいくらいだった。

(そうだ、ケイちゃんと一緒に帰る約束をしてたんだ……)

 ボクは一学期の、あの中庭でのことを思い出した。線のように細いケイちゃんの笑顔を思い浮かべると知らず知らず顔が綻んだが、彼女を誘って帰る勇気などあるはずもなく、ケイちゃんの様子を伺いながら、わざとみんなから遅れて教室を出ることにした。

 余程のことがない限り、家が同じ方向の子が揃って下校するのがルールになっていたから、賑やかな商店街に家のあるケイちゃんも、きっと誰かと一緒に帰るのだろうと思っていた。

 ところが、ケイちゃんは赤いランドセルを背負うと、ひとりで教室を出て行く。ボクは慌てて彼女を追いかけた。ただ、声を掛ける勇気まではなかったから、少し離れたところを歩いた。

 商店街は学校前の坂を下り、バス通りを横切って中学校と短大の間の細い道をまっすぐ行った方向になる。細い道の突き当りはバイパスで、その地下道を抜けてさらに数百メートル歩いたあたりに商店街が見えてくる。ボクはケイちゃんはきっと途中で誰かと合流するのだろうと思い、後ろを黙って歩いていたが、いつまで経っても誰も合流しない。ケイちゃんはただ黙々と、つまらなそうに歩いていた。


 おばちゃんの魚屋さんは商店街に入ったばかりのところにあった。その店先に辿り着いた時、ボクは黙って店の中に入ることもできたのだが、ふと、ケイちゃんの後を黙ってつけてきた感じになったのが気になって、

「ケイちゃん! バイバイ!」

 ボクにすれは最大限の大声でそう呼びかけてみた。

 すると、ハッとしたようにケイちゃんは振り向き、店先のボクを見つけると一目散に駆け寄ってきた。

「としクン! こっちに帰ってきたの? な~んだ、言ってくれればいいのにぃ~」

 嬉しそうな笑顔だった。ケイちゃんが、また目を線にして笑った。

 ボクは彼女に声をかけなかったことを後悔した。ケイちゃんと並んで帰ればよかったと心から思った。

「あ~~~、残念だなぁ。今日ね、お留守番で、おうちにいなきゃいけないから、遊べないんだ。もぉ~、としクンが一緒に帰ろうって言ってくれたらよかったのにぃ~!」
「だって、こっちの方向だとサトちゃんとか一緒かなぁと思ったから…… 」
「…… うん、そうだけど」

 ケイちゃんがちょっとだけ寂しそうな顔になった。

「じゃあ…… 明日もこっちに帰ろっかな」

 ボクはできもしないことをついつい口走ってしまった。できるはずがない、そう思ったけど口に出してしまった。

「ホント! じゃあ明日は絶対一緒に帰ろうね! 今度は約束だよ、ちゃんとした約束だよ!」
「うん。わかった」
「あ~~~~、残念だったなぁ。やっぱり残念だよ、としクン!
 お父さんがね、できることはすぐやりなさいって言ってたよ。思い立ったらなんとかだって、ウフフ」

 ケイちゃんは面白そうに笑った。目を線にして笑った。ボクは目が線になるケイちゃんの笑顔を見ているだけで嬉しくなった。


 お店に入るとおばちゃんがボクたちのことを見ていたようで、ちょっと心配そうな顔をして話しかけてきた。

「今のは奈良橋さんちの桂子ちゃんでしょ? お友達だったんだ?」
「うん、クラスが一緒だよ」
「そうなんだ…… かわいそうにね」

 何が可愛そうなんだろう? ボクにはなんのことかわからなかったが、おばちゃんもそれ以上は何も言わなかったから、ボクは黙って奥に入り、掘りごたつに潜り込んだ。


 その日の夜、ボクは母さんと大喧嘩になった。明日からは毎日おばちゃんちに寄ってから帰ると宣言してしまったのだ。

 「あんた、なに寝ぼけたこと言ってるんだい? 反対方向に寄り道して帰るなんて、学校の先生が許すわけないだろ!」
 「だって、今日もあっちに帰ったじゃないか! 先生は気をつけて帰れよと言っただけだよ」
 「それは今日はこっちに誰もいないから、おばちゃんちに帰らせますって先生に言ってあったからだよ、当たり前だろ、そんなこと…… バカじゃないの?」

 母さんはすぐにバカじゃないのと言う。ボクはもう四年生で、ちゃんと勉強もできるし、バカと言われる覚えはない。バカと言う方がバカだ! そういう決まりきった反論をしたが、まったく母さんは取り合わない。
 別に母さんが許そうが許すまいが、ボクはケイちゃんと約束したのだ。だから、明日は黙ってでもおばちゃんちに帰ろう。誰も迎えに来なくても、ちゃんとひとりで歩いて帰ろう。そう決めた。なぜかボクはケイちゃんと一緒にいなきゃならない気がしたのだ。


 次の日、六時間授業が終わってみんな帰り支度を始めた。いつものクラスの光景がいつもどおりに繰り返された。特別なことなどなにもなかった。

 ケイちゃんは赤いランドセルを背負って、教室を出て行こうとした。ボクは慌てて追いかけた。

「ケイちゃん、一緒に帰ろう!」

 ケイちゃんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにあの目が線になる笑顔で嬉しそうに声を上げた。

「今日もあっちに帰れるの? やった! 約束したもんね! そうだったよね!」

 ボクは嬉しかった。ケイちゃんが昨日の約束を忘れかけていたことがちょっと気になったが、目が線になる笑顔を見ると、一学期の体育の前、ケイちゃんがボクの腕をとって歩いてくれたあの日のことを思い出して嬉しかった。

 さすがにみんなのいる前でケイちゃんはボクの腕をとるなんてことはしなかったけど、ふたりで並んで帰るだけで十分だった。

 テレビマンガの話、ドリフの話、そういう話をしながら歩いたけど、不意にケイちゃんが

「としクン! リコーダーが上手だよね。吹いてみて?」

 と言い出した。
 ボクはとても恥ずかしかったけど、バイパスまでのこの細い道は、短大のお姉ちゃんたちもよく練習していて、時々へんてこりんな音を出していたから、ここなら平気かも、という気になった。
 自慢じゃないが、ボクは確かにリコーダーが得意だ。別に誰かに教わったわけでも練習したわけでもないけど上手く吹けた。先生が、みんなのお手本にといって吹かされることもあった。だから、ケイちゃんに聞かせることは別に平気だった。

 ケイちゃんは演奏のあいだ、ボクを正面からじっと見つめてきた。ボクはケイちゃんがリコーダーを見ているのかボクの顔をみているのかわからなくなって、途中から照れ臭くて上手く吹けなくなった。でも、ケイちゃんは感心してくれた。

「ホントに上手いね。先生に言われてとしクンがみんなの前で吹いたときにね、なんでこんなに上手なのかなぁって不思議だったんだよ。としクンはなんでもできるなぁって思った」

 ケイちゃんは笑ってなかった。目が線になっていなかった。ボクは急にドキドキしてきて、リコーダーを仕舞うと、ケイちゃんを置いてけぼりにしてさっさと歩き始めた。

「…… はやく帰ろう」

 それは本心でも何でもなく、本当はバイパスまでのこの細い道でずっと遊んでいたい気分だったけど、身体が勝手に動いてしまったのだ。

 ボクたちは少し無口になって、バイパスをくぐる地下道まで歩いた。


 地下道を抜けると、直に商店街が見えてくる。うしろのバイパスは大きな車も行き交って少しうるさい。ボクたちは黙って歩いた。


「…… おばさん?」

 前から小走りにやってくる女の人を見てケイちゃんが小さく呟いた。

「知ってる人?」
「…… うん、おばさん」

 ケイちゃんは少し顔をこわばらせてその場に立ち竦んだ。おばさんはボクたちふたりの姿を認めると、急に全速力で走り寄ってきた。そして、ケイちゃんの腕をつかむと、

「早く! 早く来なさい! 急いで!」

 そう言うと、強いチカラでケイちゃんを促した。

 ケイちゃんは何か事情を察したようで、おばさんの腕を振り払って走り出した。赤いランドセルに刺したリコーダーの袋が激しく揺れている。ランドセルから振り落とされるんじゃないかと思うくらい激しく揺れている。ケイちゃんは、一度もボクを振り返ることなく全速力で走って行ってしまった。彼女の向かっていく先に、地表に落ちそうなひこうき雲が解け始めている。


 取り残されたボクを憐れんだのか、ケイちゃんのおばさんがボクにこう言った。

「ごめんなさいね。
 桂子のお友達? これからも仲よくしてあげてね……」

 そう言いながらおばさんは泣いていた。泣いているように見えた。



 次の日、学校でケイちゃんのお父さんが亡くなったことを知った。ずっと病気だったことを知らされた。


 それからしばらくのことは、未だに何も思い出せないでいる。




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