みゆき

 みゆきは転校生だ。小学五年生の時に、町の中心部の学校から転校してきた。小さな地方都市の、さらに北西部にあるこの小学校には似つかわしくない、どこか可憐な感じのする彼女だったから、転校してきた時から多くの男子の注目を一身に集めた。

 実はボクは彼女のことを良く知っている。彼女はきっとボクのことなど知りもしないだろうが、ボクは知っていた。ボクだけじゃなく、健太郎も知っているはずだ。なぜなら、彼女はある意味でスーパースターだったから。

 ボクと健太郎は幼稚園の頃から音楽教室に通わされていた。親同士の見栄だろうが、日ごろ音楽の「お」の字もない環境にあるボクと健太郎が、急に音楽教室と言われて馴染めるわけがない。週二回の練習日は、それはもう嫌で嫌でたまらない、単なるいじめの日としか思えないものだった。

 ただでさえ嫌な音楽教室だが、さらに嫌なことに年二回、発表会なるものがある。これがいけない。ずんちゃっちゃ~ずんちゃっちゃ~の数小節しかできないボクらも参加させられるのだから、正常な親なら恥ずかしくて人前に出したくないと思うはずだが、うちの母さんは変人だから一向気にする様子がなく、わが子が音楽教室に通って発表会に出るだけで周囲に自慢しているようだった。

 その発表会で常に最後を飾るのが、みゆき。大石美幸だった。彼女の演奏は、ずんちゃっちゃ~しか弾けないボクにもわかるほど華麗で美しく、とても同じ楽器を奏でているとは思えないものだった。演奏時間もボクや健太郎がものの数分で終わるのに対して、彼女はその何倍もの長い時間演奏するが、その間、誰も退屈することはなく、演奏が終わるとやんやの大喝采を得ていた。

 しかも、彼女の衣装がこれまた眩しい。特に、二年生の時に見かけた鮮やかなクリーミーレモンのフリフリしたドレスは、その頃大好きだったミルクセーキを思い起こさせ、そのせいもあるのか、ボクはきっと彼女に恋していたと思う。

 それはともかくとして、彼女はボクとは住む世界の違うアイドル、天使、そういう感じだった。

 その彼女が同じクラスになったのだから、ボクは驚きを超えて震えがくるほどだった。


「はじめまして、大石美幸です。エレクトーンやってます。みなさん、どうぞよろしく」

 転校の挨拶からして上品だった。完璧だった。この世のものではなかった。この時ほどボクは音楽教室を途中で止めてしまった自分を呪ったことがない。母さんに談判してボクを音楽教室から抜け出させてくれたばあちゃんのことも恨んだくらいだ。

(あぁ…… 続けときゃ良かった)

 後の祭りだ。彼女の周りは音楽教室に通っている連中が取り巻いており、途中でドロップしたボクや健太郎、それに音楽の「お」の字のない連中は遠巻きに眺めるしかなかった。


 音楽の時間には彼女が時々オルガンを演奏した。それはもう先生よりずっと上手で、単に鍵盤を間違わずに叩くだけではなく、音を奏でるという言葉が正しかった。どんな曲もきちんと演奏すれば、違った感情を呼び起こすものなんだということを教えてくれたのは彼女だったかもしれない。彼女は五年一組だけでなく、五年生全体の、いや、学校全体のアイドルにふさわしい人物のように思われた。

 そんな彼女と二学期に同じ班になった。六人でひと班だ。給食、掃除の時間は必ず一緒だから、話をするチャンスも多くなる。特に給食の時間は、その六人が机をくっつけてテーブル状にして食べるから、ボクは嬉しくもあるが毎日緊張しまくった。

「ねぇ、としクンってなんで音楽教室やめちゃったの?」

 まあ当然出てくる質問だと想定していたから、ボクは事前に用意してあった回答を澱みなく読み上げる。

「音楽は嫌いじゃないんだよ。でもね、勉強もあるし、うちは学校から遠いから、遅くなるとエレクトーンの練習する時間もないし、それでやめただけだよ」
「そうなの? 楽しいのに」
「みゆきちゃんくらいできると楽しいんだろうね」
「うん。練習させられてるなんて思ったことないよ。好きだから何時間でも弾いてるよ。最近は曲も作ったりするんだよ」

 唖然とした。ずんちゃっちゃ~と楽譜を追うだけでも大変なのに自分で創る? それはどんな作業なんだ?

「天才なの?」
「いっぱいいるよ、そういう人。私くらいの人なんか、中国大会とかだといっぱいいる」

 想像できない話だった。ボクにはこの小さな海辺の町の、そのまた小さな小学校で起こることが全てで、この近隣の町の子供が集められる音楽教室の発表会ですら大ごとなのに、いくつもの町を集めたそれを遥かに超えて、隣の県もさらに超えるなんてことが理解できるはずがなかった。

「天才がいっぱいだと天才も困るね」
「ハハハ、天才の中の天才ってなんていうんだろ?」
「…… スーパー天才?」

 語彙の少ない五年生だから仕方ない。スーパーをいくつか重ねればいいだろくらいしか思いつかなった。


 同じ班になるといろいろな彼女も見えてくる。彼女はエレクトーンを見事に弾きこなす華やかな女の子というだけではなく、掃除の時間には男子とふざけあって箒を振り回して遊んだりもする子だった。

 彼女は単におとなしいだけじゃない、つまらない規則は破っちゃえ、くらいの自由さがあった。そういう一面を見せられると、急に天使が地上に降り立った感じがして、ボクはとても気分が良かった。
 時々、見回りに来る先生から、掃除が捗ってないと叱られると、一緒になってしょんぼりしたフリをするのも仲間意識を感じて嬉しかった。彼女は徐々に華麗なみゆきちゃんから、ただのクラスメイトのみゆきになってきた。


 その日、ボクたちはいつもどおり机を並べて給食を食べていた。もうすぐクリスマスがやってくる。クリスマスの時期になると決まって練習する曲があるんだよ、などとみゆきが話し始めると、みんな興味を持ってどんな曲なんだ? とか、今度聞かせてねみたいな話になる。地上に降り立ったものの、みゆきは相変わらずボクたちのアイドルだった。

 その時だった。みゆきの真正面に座っていたスギちゃんが、ボソッと言った。


「クリスマスだから、ジャングルジムだろ?」


 伝わらないかなぁ…… この面白くもなんともないオヤジギャクとしか言いようのないクソボケ……

 普通ならシーンとするところだ。

 しかし…… ツボにはまるってことはある。面白くもなんともないけれど、言い出すタイミングとか、言い方とか、そいつの持っている雰囲気だとか、そういうものが合わさって、ツボに入って噴き出すということはある。みゆきにとって、このスギちゃんのつまらないギャグ、いや、実は彼はギャグのつもりでもなかったと後でわかるのだが、それに嵌ってしまった。しかも運の悪いことに、牛乳を飲んでいる最中に……


 ブッ………………


「うわっ! 汚ったねぇ! 何すんだよぉ~~~」

 スギちゃんが椅子から飛び上がった。その横にいたボクも反射的に椅子から飛び上がる。ボクの目の前にいたゆりちゃんも、後ずさりする。

 みゆきの顔を見ると、ところどころに牛乳の白い斑点が付いたまま、まだ笑っている。口から、飲み残しの牛乳が垂れようとしているにもかかわらず、今度は上を向いて大笑いしている。

 机の上は彼女が噴き出した牛乳だらけで、とても食べられそうにない。半分齧っただけのパンの上にも、野菜と肉を適当に煮ただけの副食にも、色とりどりのナフキンの上にも、机の上にも、白い斑点があちこちに散らばっている。そこに彼女だけが座ったまま大笑いしている……

「汚ったねぇよぉ~~、みゆきちゃん…… もう、食べられないよぉ~~」

 スギちゃんが半泣きの顔で不満をみゆきにぶつけている。ようやく事態を収拾すべく先生が雑巾を持ってきたが、みゆきはまだ笑っている。
 ゆりちゃんが先生から雑巾を受け取って、散らばった白い斑点を拭き始める。みゆきもようやく席から立ち上がった。ボクと目が合うと

「あ~あ、こんなんなっちゃった、アハハハハ」

 と服にまで飛び散った牛乳の斑点を指してまだ笑っている。悪びれるところはまったくない。

「顔…… みゆき、顔にもついてる……」

 ボクはそう言ってハンカチを差し出したが、みゆきはそれを受け取らずに自分のハンカチで顔を拭き始めた。スギちゃんはまだ給食が食べられないとブツブツ言っている。ゆりちゃんは机の上の給食を片づけ始める。ボクは唖然としてみゆきを眺めている。

「杉田、まだ副食余ってるよ、これ食べな!」

 先生の声で、みんな我に戻る。スギちゃんは副食と、誰かが差し出したパンを受け取って、隣のテーブルで食べ始めた。彼の服にも白い斑点は残っているが、あまり気にしていないようだ。
 みゆきもようやく後片付けを手伝い始めた。ボクの手からハンカチを受け取ると、それをスギちゃんに手渡して、ごめんね、と笑いながら謝っている。
 最後の最後までゆりちゃんはニコリともしないで机を元の形にもどし、雑巾を持って洗い場に向かった。

 ボクはその様子をずっと眺めていた。一瞬、スギちゃんの声に驚いたけど、ボクはさっきまで残っていた白い斑点を別に汚いとも思わなかったし、ひょっとするとあのまま食べても平気だったかな、などと考えている。こんなことを考えているボクは異常なのかなと思うと、急に恥ずかしくなった。


 その日以来、彼女のことを「みゆきちゃん」と呼ぶ男子はひとりもいなくなった。みんながみんな「みゆき」と呼び捨てにした。そして彼女はますます快活になり、掃除の時間には男子と一緒に鬼ごっこに興じるようになり、今度こそ先生に一緒に本気で叱られた。

 ボクたちには相変わらず最上級のエレクトーン演奏に思えたが、それからは中国大会とか、そういう大きな舞台に立つことはなくなったようだった。だが、彼女は相変わらずエレクトーンを弾くのは楽しいと言っていた。一度ボクの家にも遊びに来て、今は誰も弾くことのないエレクトーンを弾いてくれたこともあった。母さんはやっぱりお前は二年生でやめてよかったよ、みたいなことを言った。

「大きくなったらみゆきはプロとかになるの?」

 ボクは興味本位で訊いてみた。

「ううん、ならないよ。趣味よ趣味」

 頂上付近の景色を垣間見たみゆきだからこそ、そこに至る道の険しさを肌身で感じていたのかもしれない。



 やがて中学生になり高校生になり、彼女とはずっと同じ学校に通ったが、その後は一度も同じクラスになることはなかった。

 やがて、天才アイドルのみゆきは普通にどこにでもいる明るい少女になり、ごく普通の大学に進学した。そして、大学を卒業した後のことはよく知らないが、今ごろはどこかで自分の子供にエレクトーンを教えていることだろう。




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