二年三組にはふたりの波多野がいた。波多野由美と波多野恵美。「ゆ」と「え」だけの違い。名前を呼ぶのも紛らわしい。だが実際のふたりは対照的で、誰もふたりを混同なんかしなかった。
小柄で落ち着きがなく、何ごとにも口を挟まないと気が済まないタイプの由美に対し、恵美ちゃんは中肉中背で物静か。笑みを絶やさず、頬の小さなえくぼが印象的な子だった。
そのためか、由美のことはみんな由美と呼び捨てにしたが、恵美ちゃんのことはみんなちゃん付けで呼んだ。クラスの誰もがそうするのが当たり前のように、ふたりをそう呼び分けた。
ところが不思議なことにふたりの波多野は仲良しだった。別に親戚でも何でもないらしいが、住んでる場所がすぐ近くだったこともあり、昔々を辿ればご先祖さまは姉妹だったかもしれないね~、なんてことをニコニコしながら話すのだった。
ある日、放課後の帰り支度をしているところに由美がなぞかけのような話をしてくる。
「神原クンさぁ、恵美ちゃんのことが好きでしょ?」
何の前触れもなく、いきなりそんなことを話しかけてくる。
脱いだユニフォームをくしゃくしゃっとカバンに押し込みながら、ボクは恵美ちゃんの顔をちょっと思い浮かべる。嫌いな顔じゃないけど、特に意識したことがない。
「別になんでもないけど?」
「じゃあ、まだクロちゃんのことが好きだとか?」
そう言えば一年生のクラスメイトに、お前、誰が好きなんだよ? と問われて、別の小学校からやってきた黒石という、色白で成績がバツグンに良かった子を好きだと話したことがある。
「好きっていうか、まぁ、なんていうか……」
すっかり忘れていたくらいだから、好きと言うよりちょっと気になった、程度の話だが、彼女のことが好きだと公言した手前もあるし、今はクラスも別々で思い出すことも全然ないが、でも嫌いになったわけでもないしなぁなどと考えて、ボクは曖昧な答えを返すしかなかった。
すると由美が断定的な口調で、
「クロちゃんは神原クンを好きでも何でもないらしいよ」と言う。
これにはボクもカチンときた。
大きなお世話だ。別に今頃になってそんな話を蒸し返さなくても、ボクだって相手にされてないことくらいわかってる! 放っておけばいいだろ? そもそもお前に何の関係があるんだ? と、由美の無神経さが腹立たしかった。
それで相手しないでいると、由美が重ねて言う。
「ねぇ、神原クンさ、恵美ちゃんのこと好きでしょ?」
だから何度同じことを言わせるんだ! と思って、その時のボクは由美を無視して教室を出た。
一年生の頃と違って二年生になると男子も俄然色気づく。あいつは誰が好き、こいつはこっちが好き、誰と誰は付き合ってる、なんて話題があっちこっちでヒソヒソ語られている。
ただ、大抵の男子は自分が当事者になるのは照れくさいから、そういう話題に出た連中を、よくやるよなぁ~みたいな笑いものにしてからかうのだが、ホントは心ひそかにガールフレンドができないものかと思っている。
毬栗頭で何を色気づいてるんだと笑いたくなるかもしれないが、万一ガールフレンドができたら、この頭は先生に叱られない程度には伸ばそうか、などと結構本気で考えたりしている。相変わらずエッチの対象はエロ本の中のお姉さんだが、できれば同級生の誰かとキスくらいはしたい、可能なら服の上からでいいから、おっぱい触ってみたい、くらいな事は願っている。そういう年頃なのだ。
そんな異性への思慕が頭を占める時期だったので、自宅までの三キロの道のりを歩くあいだ、ボクは由美の言葉を思い出し、知らず知らず何度も反芻していた。
『…… 恵美ちゃんのことが好きでしょ?……』
『…… クロちゃんが好きなの?……』
『…… クロちゃんは好きでも何でもないらしいよ……』
『…… 恵美ちゃんのことが好きでしょ?……』
由美はボクに呪文をかけてしまったようだった。その夜、ボクは恵美ちゃんとクロちゃんの顔を思い出しながら、なかなか寝付けなかった。
だが、断っておくが、ボクの得意科目は数学だ。連立方程式などおちゃのこさいさいだ。文字式の計算など間違えたことがない。ボクはボクと恵美ちゃんとクロちゃんの関係式を整理し、一定の答えを導き出そうとしていた。
ボクはクロちゃんが好きだ。
クロちゃんはボクが好きではない。
だから、ボクがクロちゃんを好きでも意味がない。
ボクが恵美ちゃんを好きだと仮定する。
恵美ちゃんがボクを好きかどうかはわからない。
でも恵美ちゃんはクロちゃんとは違うらしい。
ということは?
クロちゃんとは付き合えないが、恵美ちゃんとは?
つまり? ……
由美の暗示にボクはハタと気がついた! そうか、そういうことか! 直接は言えないけど、恵美ちゃんはボクを好きなのか⁉ 仲良しの由美にこっそり打ち明けて、それを由美が知らせようと……
そうか、そういうことか!
それに気づいた瞬間から、ボクは恵美ちゃんのことがやけに気になり始めた。
目立たないけどいつもニコニコして優しい恵美ちゃんが、気になって気になって仕方なくなった。
それからしばらくして……
ボクは検診で原因不明の内臓疾患が疑われると医者に診断された。要精密検査で一週間安静のこと、と通告された。
聞いたことのない内臓が肥大していると言われ、驚き慄くというより、な~んの実感もなく、ボクはこりゃ何かの間違いだな、とすぐに思った。日常生活に支障はないし体調に変化もない。ここらでは有名な藪医者だから誤診に違いない、相手にするのもバカバカしいと思った。が……、この誤診、ひとつだけ渡りに船的な好都合があった。
(これで部活を辞められる?)
実を言うと、ボクはバスケットボールがつまらなくてつまらなくて仕方なかった。消去法で選んだ部活でやる気も出ない。毎日毎日ダッシュとインターバルの繰り返しでウンザリ。だから、この誤診を逆手にとり、絶対安静の重病だから部活できません、ってことにしてしまおう、そう考えたのだった。
「では、一応休部ということで。いつでも練習を見学してくれ」
顧問はそう言ったが、ボクはもう完全に興味を失くしており、その日以来、練習コートに近づくこともなくなった。清々した。
そんな時、恵美ちゃんがボクの席へやってきた。
「神原クン…… 身体、大丈夫なの?」
それは見るからに心配そうな顔で、ひょっとすると泣き出してしまうんじゃないかというくらいの顔だった。ボクは部活もできない重病の恐れありと言ってしまった以上、全然平気なんて言えるわけもなく、ちょっと元気なさそうに
「…… うん。たぶん大丈夫。おとなしくしてれば治るよ」
そう言いながら、ここらで咳き込んだ方がいいのかな? などと考えていた。
すると、恵美ちゃんはますます心配そうな顔になって言葉を失くし、手に持った小さな何かをボクに手渡そうとする。
「…… これね、このあいだ八幡様に行った時に買ったの。持っててくれる?」
彼女が差し出したのは、淡いブルーのお守りだった。
「いいの?」
無神論者のボクがお守りの効能など俄かに信じるわけはないが、他ならぬ恵美ちゃんからのプレゼントだし、結構綺麗な色使いだったから、ボクは素直に喜んだ。
「うん…… こっちは私の……」
そう言って、彼女は淡いピンク色のお守りを見せてくれた。
その瞬間、恵美ちゃんはボクのガールフレンドだと思った
付き合おうよ、なんてことは言わなくても、もう決まったも同然だ。
だって由美の話からすると、恵美ちゃんはクロちゃんとは違うんだし、ボクも恵美ちゃんが嫌いじゃない。まして、病気のボクを心配して、お揃いのお守りもくれたほどだから、きっとボクが言わなくても、彼女はガールフレンドになってくれるつもりに違いないと思った。
だけど、ガールフレンドになったら、何をすればいいんだろう?
ボクにはその次のことがまだよくわかっていなかった。というより、ガールフレンドだと思う相手があればそれで十分だったような気がする。
誰かに、ガールフレンドはいるの? と質問されたら、ああ、いるよ、と答える資格を得た、それで十分だった。
そう言えば、男女で付き合っていると言われている連中は何をしているんだろう?
ボクはそういうことが気になった。
(デート? デートはどこに行けばいいんだろう? 遊園地? 公園?)
あれこれ考えてみるけど、イマイチぴんとこない。子供じゃあるまいし、遊園地で乗り物に乗ったところで楽しそうでもなんでもない。公園でベンチに座っているのはじいさんとばあさんだ。ボートは漕げない。
(う~ん…… なにをすればいいんだ?)
困った挙句、ボクは直接恵美ちゃんに訊いてみることにした。
「恵美ちゃん、今度の日曜日は何か予定ある?」
「部活だけど、他には特に予定ないよ」
「そう。じゃあどこかで一緒に遊ぶ?」
「ダメだよ。神原クンは安静にしてなきゃ」
「…… 少しくらいは平気なんだけどね」
なんてもんじゃない。ボクはピンピンしている。むしろ、部活もやめてエネルギーは溜まりすぎてるほどだ。
「ダメよ。うちのお母さんね、看護婦さんなんだよ。お母さんが言ってたよ、入院しなくていいのかしらって。大丈夫なの? 学校来てていいの?」
そろそろ体育の見学も飽きて、来週あたりからは体育の授業も普通通り参加しようと思っている矢先だったから、彼女の心配は意外だし大袈裟だった。
「平気だと思うけどな……」
「嫌だよ! 神原クンが死んじゃったら……」
どうも話が大袈裟だ。ボクは死んじゃうの? どうもデートどころではなくなった。
「大丈夫だよ、恵美ちゃんがお守りくれたし……」
「うん、待っててね。私、高校卒業したら看護学校に行って、神原クンの看病してあげるからっ!」
「…… それまで持つかな……」
もちろん、命がではない。ボクの嘘がそれまでバレずに持つかどうかだ……
「神原クン! 病は気からなのよ! お母さんがいつも言ってるのよ、看護婦さんは患者さんを励まさなきゃいけないって!」
「…… うん」
どうもおかしい。なんか変だ……
翌日、ボクは由美を問いただした。
「おい由美、この前の質問って何だったんだ?」
「ん? 何か言ったっけ?」
おいおいおいおい、そりゃないだろ? ボクは質問を続けるかどうか悩んだ。すると、由美がボクの代わりに質問してきた。
「ねぇ、神原クンさぁ、あっちゃんのことが好きでしょ?」
「…… お前ねぇ」
「ひょっとして、未だにクロちゃんのことが好きだとか?」
「クロちゃんはオレのことなんか好きでも何でもないんだろ⁉」
「アハハハ、わかってんだ」
「お前が教えてくれたんじゃんかよ!」
「あれ? そうだっけ?」
「ふざけんなよ! お前何がしたいんだよ‼」
「だってさぁ、気になるじゃん。誰と誰が好き同士なのかって」
「…… まさか、お前思い付きでそんなこと言ってんの?」
「アハハ、思い付きってわけでもないけど、なんか予感?」
あまりのことにボクは言葉も出なかった。完全に由美にからかわれている……
「ついでだから聞くけどさ、恵美ちゃんってどんな子なの?」
「いい子だよ。ちょっとおばちゃんっぽいけど」
「オレのことなんか言ってた?」
「ん? 特には聞いたことないけど。病気で可哀そうって言ってたかな。
お守りもらったんじゃないの?」
「…… もらったけど」
「可哀そうだね、って言って買ってたもん。一緒に八幡様のお祭りに行った時お守り買ったんだけど、ついでに買ってあげようって言ってたよ。これの色違いでしょ?」
由美が差し出したのは淡いピンク色のお守りだった。明らかに恵美ちゃんとお揃いだ。
「そう言えば、神原クンが入院したらお見舞いに行こうねって約束したんだった。神原クン、いつ入院するの?」
「…… 」
「入院したら教えてね。恵美ちゃんと喜んでお見舞いに行くからね!」
「…… 」
その翌週、ボクは体育の授業で三週間ぶりに大暴れしてやった。
それからというもの、恵美ちゃんが話しかけてくることは二度となかった。
グラウンドの上空には青空が広がっている。今は一瞬、雲が太陽を遮っているけど、きっとすぐに晴れ上がるはずだ。