『今週もあっち?』
結花からのメールは相変わらず単刀直入で前置きがない。
『うん。何もないと思うけど、一応よろしくね』
毎週末、父が残してくれた海辺のマンションに通う。母は未だに中学時代からの友人、結花が一緒と思い込んでいるが、相手はとっくの昔に男に変わってる。
『それはいいけど。佳矢もよく続くね』
結花だけが本当のことを知っている。細かくは話していないが、相手のことは伝えた。
『結花はどうするの? 今週末はあっち?』
彼女は警察官に採用されたばかりの若い子を追いまわしている。十一歳年下だ。
『ううん。いっそのこと引っ越そうかと思ってる』
大学を卒業したばかりのその若い警察官は隣の県警勤務。
『そこまでやる? だって、彼女がいるんでしょ? 結城クン』
『だから、大人の女として、ここは違いを見せるんだよ』
警察官の彼が、年齢相応の若い彼女と遠距離恋愛になった今がチャンスということだろうか?
いくら年の差があろうと、相手が独身ならそういう無茶だって正当化できる。少なくとも気持ちの上で正当化できる。自分の行動は相手への愛がそうさせるんだと周囲にも言える。だけど私は……
『いいね、結花は……』
つい、相手を羨むようなことを書き送ってしまった。私の相手は八歳年上の既婚者。付き合い始めて三年、海辺のマンションに通い始めてからでも二年近く経つ。そんな私の愚痴は無視して結花からの返信は続く。
『会社終わったらそのまま行っちゃうんでしょ?』
『うん。でも日曜日のお昼前には戻ってるよ』
結花は、洗いざらい話すことで自分の立ち位置を確かめようとしてるようだった。人の意見を聞く気はないが、気持ちを吐き出すことで収まりをつけようとしている、そんな感じを受けた。引っ越しまで考えているなら、きっと吐き出したいことも沢山あるのだろう。
『来週末には引っ越すかもしれないから、日曜日に会おうよ。帰ってきたら連絡して』
『できるだけそうする』
『なんだよぉ〜 冷たいなぁ』
ホントは結花の話を聞く余裕などない。自分のことで精一杯。やっていることの意味を見失い始めているのだ。今の関係を続けても、先がないことなど誰に言われなくてもわかっている。
だけど…… 私は結花と違って、あけっぴろげに話すことができない。何をどう説明したら本当の気持ちが伝わるのかわからない。だから、何も言えなくなる。結花にも心の中は何も話せていない。鬱々とひとりで考え込んでいるだけ。誰かに思い切りぶちまけた方がいいのは私かもしれないのに。
『できるだけそうする……』
同じ答えを送るしかなかった。
『待ってるからね』
そこでメールは途切れた。
外では雨が降っている。夕方からの雨は強さを増すばかり。
(明日はやめようかな……)
最近、木曜の夜が少しだけ重苦しい。
「結花ちゃんが一緒なのね?」
金曜日の朝、毎回母に念を押される。母が私の僅かな変化に気づくわけがないと思いつつ、変に勘ぐられないよう、心をキュッと引き締める。
「そうだけど。それが何か?」
「結花ちゃんも毎週毎週付き合ってくれるなんて、ホント、ご苦労様ね」
母は何も知らない。相手が男、しかも八歳年上の既婚者などとは夢にも思っていないことだろう。
「たまには結花ちゃん連れてきなさいよ、ご馳走でもしてあげなきゃ悪いわよ」
同じことを何度も繰り返す。白髪を後ろで束ねただけの横顔は、確実に年を取った気がする。
「こんな辺鄙なところ…… 結花が嫌がるよ」
誘えば結花は喜んで来てくれるだろう。だけど、わざわざ危ない橋を渡る必要もない。
「あら、そうかしら? あなたが言うほど遠くはないわ」
池袋から電車に揺られて一時間、そこからバスで十五分、そのうえ坂道を十分歩く。父が経営していた工場をすっかり手放して、丘陵地のここに転居したのが高校一年生の時。それ以来続く、長くて不愉快な通学通勤のことを、母は想像すらしないのだろう。
「遠いわ。私だって帰りたくない日があるくらい」
疲れていると最後の坂道がホントに辛い。
「そんなにここが嫌なら都内に部屋でも借りなさい。誰かと同棲したって私は反対しないわよ」
二十五歳の時、当時付き合い始めた人の為に本気で部屋を探した。だけど、この母に根掘り葉掘り探りを入れられて、結局嫌な思いをしただけで諦めた。あの時のことを、この人はキレイさっぱり忘れている。
「お母さんの、反対しないわよ、ほどアテにならないこともないわ。どうせ、後になってあれこれ条件つけるくせに」
「条件? おかしなこと言うわね。私は当たり前のことを言ってるだけよ。条件というより、独身の娘に当然言うべきことを、親として意見しているだけだわ」
「その当然というのがイヤなの!」
少し声が尖った。
「…… すぐ喧嘩腰になる……」
「こんなとこ、不便なだけ! ここ売って小さなマンションにでも引っ越した方がよっぽどマシ」
夫の残したものを売り払う…… 母には娘の本音が思ったより冷酷に聞こえたようだった。ぷいと会話を打ち切って、一番お気に入りの子猫を抱きかかえて庭に出て行ってしまった。
「いや~ねぇ、チコちゃん。あんなお姉さんなんか放っておきましょうねぇ……」
公園で捨て猫を見かけると、拾って育てるのが趣味のようになっている母。夫を亡くし、娘とはまともな会話にならず、身寄りはなく隣人とも上手くやれない母が、唯一言葉を掛けられる相手が、捨てられて行き場のない猫たちだけなんて…… 悲しすぎて笑う気にもなれない。
なぜか金曜日の朝はイライラする。あと数時間もすれば、心が塞がるほど好きなあの人に会えるのに、私と彼の周囲にあるもの全てが私たちを邪魔しているように感じてしまう。
「…… 行ってきます」
いくら嫌っても、たったひとりのこの母親を、見捨てることなどできるはずがない。猫を抱えた無言の背中に、やっと届く程度の声をかけて、そっと玄関を出た。
自宅からバス停までの坂道は急だ。今朝は真夏の陽ざしに代わり、雨上がりのひどい蒸し暑さに囲まれた。歩き始めると直にじっとり汗ばんでくる。
(なんなのこの天気は……)
そう思いながら歩いていると、一通のメールが届く。
(彼?)
一瞬、蒸し暑さを忘れる。
バス停で携帯を見る。…… ただのメルマガ。
期待した分、苛立ちが募った。
(遼ちゃん…… たまにはあなたからメールして欲しいよ)
彼には訊きたいことが山ほどある。確かめたいことも山ほどある。だけど…… できない。
『おはよう。今日、楽しみにしているね』
彼の期待してそうな私になってメールを送った。
駅に着くころ、たったひと言返事がある。
『おはよう。ボクもだ』
……
ここから満員電車に揺られて一時間。そこからオフィスまで歩いて十分強。不快指数マックス!
こんな生活、もううんざり!