思うよ、ってどういうこと?

「おつかれさまです」

 周囲に声をかけて真っ先にオフィスを出る。

「あれ?…… そうか、金曜日ですもんね。おつかれさまでした」

 入社ニ年目の片平クンがにこやかに挨拶してくれる。毎週金曜日は早帰り奨励日だ。

「片平さんも。おつかれさまです。お先です」

 結花が追いかけている結城は片平クンと同じ年頃だ。まだまだ初々しく礼儀正しさを失くさない彼を見ていると、結花が同年代の男の子に惹かれるのも、ちょっとだけわかる気がした。十一歳の年齢差なんて、そんなに大したことじゃないのかも知れない。

 だけど…… 彼は私の手の届くところにはいない。そんなこと、ちゃんとわきまえている。年齢のことじゃない。彼は正社員たちのもので、私のような派遣社員のものじゃない。
 そんなことを考える自分はちょっと情けない気もしたが、今は駅に急ごう。


「ちょっと中澤さん…… 」

 エレベーターホールで後ろから呼び止められた。
 京極支社長代理の声だ。年齢は確か私と同じはず。一選抜ならそろそろ管理職になれる年次だから、もっと張り切ってもよさそうだけど、この人からはあまりそういうギラギラした感じを受けない。ニ年目の片平クンが落ち着いた感じとでも言えばいいだろうか。

「なんでしょう?」
「うん、このあいだ頼んでおいたファイリングの状況を聞いてなかったから…… でももう帰るよね?」

 週末、十七時三十分、エレベーターホール。この状況で、派遣社員の私に、もう帰るよね? はあり得ない。とは思ったものの、京極さんなら仕方ない。

「十分くらいなら…… 場所、お教えしましょうか?」
「お願いできる? そろそろ検査部がいつ来てもおかしくないからさ」

 仕事とは言え、彼らがなぜ同じ会社の検査にこれほど恐々とするのか、私には未だにピンとこない。でも、彼の顔は真剣そのものだし、真面目に仕事をしているエリートたちの横顔はそれなりに美しい。私は少し急ぎ足で書庫に向かった。

「マニュアル類はこのキャビネットに全部揃えてあります。クレーム履歴はこの鍵のかかるキャビネットの中のバーチカルフォルダーに発生順に並べてあります。これで良かったですか?」
「うん…… ひとまとめにしてくれたんだね。わかりやすい。ありがとう」

 京極さんはフォルダーをさらさらと指でなぞって確認した。

「いえ。峰岸さんからちゃんと指示がありましたから」
「そうなんだ…… ありがとう」
「いえ。では…… あの、もうよろしいですか?」

 彼が立ち去ろうとしないので、ちょっと困る。

「あっ、ごめん引き止めて。助かりました」
「じゃあ、失礼します」

 そう言って書庫を出ようとした瞬間、もう一度呼び止められた。

「中澤さん。今度、誘ってもいいですか?」

 一瞬だけど、誘う、という言葉の意味を掴みかねた。ひとつ間違えばセクハラになりかねない誘いを、彼がこんな場所でするなんてまるで予期していなかったのだ。咄嗟に言うべき答えを見つけられない。

「…… すいません。時間が……」
「そうだね…… ごめんね、忘れて」
「…… お先に失礼します」

 早足になっていた。ドキドキもしてる。エレベーターを待つ時間がいつもの何倍も長い気がする。今すぐこの場を立ち去って、あの人に会いたいと無理に思い込もうとした。

「暑っつ〜」

 やけに蒸し暑く感じて、無意識にハンカチでパタパタ首元を扇いでいた。



『池袋出ました♡ 予定どおりで大丈夫?』

 丸の内線の中で彼にメールした。この時間はまだ仕事中だと思ったけど、そうでもしないと、彼は平気で約束に遅れそうな予感がした。

『もう出たの?』

(もう……? もう出てなきゃ遅れるってわかるだろうに……)

 仕事を終えてすぐに駅に向かっても、東京駅十九時発の在来線特急に乗るのがやっとだ。
 それでも一応、海浜幕張で彼が乗るべき電車の時刻を調べて送信した。
 なのに、彼からの返信はそのまま途絶えた。

 朝方の蒸し暑さのまま、午後からはさらに空模様が怪しくなった。ポツポツと降り始めていた雨がざっと振り出せば、彼から今日はやめようとメールが来るかもしれない。メールが途絶えたのは、そんな文面でも考えているからかしら…… 嫌な予感が頭を過る。でも足は何の躊躇もなく京葉線の地下ホームを目指した。

 長い長い京葉線ホームへの通路を歩きながら、マンションの風通しのためだけに、ここを毎週歩くなんて考えられないと思った。母親は、実際にここを歩いたことがないから、娘の行動の訝しさに気づかないのだ。一度でもこのルートを辿ったなら、毎週毎週あそこまで通うなんて、なんの意図もなく続けられるはずがないと簡単に気づいてしまうだろう。

(しかも今日はこんな天気…… こんな日に空気の入れ替えなんてするかしら)


 ホームでいつもの特急列車を待ちながら、この数年間のことを思い返す。
 二年前、幕張に異動した彼は、自宅から通えなくもない新任地に単身で赴任していた。彼の部屋には行ったことはないけれど、そこは私が足を踏み入れて構わない場所のように思ってきた。だが、その場所は結局一度も訪れたことがない。

『十九時○九分には乗ってよ。この前みたいにひとりで行くのはイヤよ』

 彼からの返信を待ちわびてホームからもう一度念を押した。
 普通の恋人同士じゃないんだからね、そう付け加えたい衝動が湧き起こる。人目を避けるように遠出をする自分たちの関係を思う。

(普通じゃないよね……)

 そこに、彼からあっさりした返信が戻る。
『大丈夫だと思うよ』
 ホッとして…… でもちょっと引っかかる。

(思うよ、ってどういうこと? 自分の意志で決められないってこと?)

 以前なら気にもしなかったひと言に過敏に反応してしまう。付き合い始めの頃、この人はこんな優柔不断なこと言ったかしら? 決して言わなかったと思うけど、それはその頃の私が気づいていなかっただけの事?

『大丈夫にしてね。一緒に行きたいから』

 それなのに、彼の中にいる私を想像しながら返信している。
 いつのまにか、相手の思い描く自分でいたいと思うようになった。自分のための自分ではなくて、相手のための自分……

(私は結花のようにはなれない……)

 少し前、結花に言われたひと言を思い出していた。

『佳矢は好きであの人を追いかけてるんでしょ? だったらそれでいいじゃない』

 結花は好きになれば仕方ないと言った。

『私が年下の彼を追いかけるのは、頭の後ろあたりでそうしろと囁くもうひとりの自分がいるから。その声に従ってるだけ。佳矢だってそうでしょ?』

 なんの疑問も差し挟むことなくそう言われてハッとした。

 自分自身が追いかけたいから?…… そうなんだろうか?
 私は本当に彼を追いかけたいのだろうか? 

(ううん、違う。彼が追いかけるから仕方なく…… なわけないか)


 そんなことを考えながら特急列車に乗り込んだ。
 途中、蘇我駅で彼が合流するはず。念押しのメールもしたし、続けてニ回も遅れてくるなんてことはないでしょ? そこまで愛人を軽んじていいはずがない……

 愛人

 どうしてこんな言葉を思い浮かべるようになってしまったのだろう。一体いつからだろう。この言葉の持つ附属物みたいな感じがとても嫌! 
 もし、彼が私のことをこの言葉で呼んだら、その場限りきっぱり別れられそうな気がする。

 冗談じゃない! もう本当に冗談じゃない…… 結婚したい。普通に結婚したい。普通に子供を抱きたい。

(あなたの…… あなたの子供が抱きたいのよ……)

 特急列車はまもなく蘇我駅に着く。

(乗るわよね? 遼ちゃん…… )

 私は祈るような心持ちで、ホームに彼の姿を探した。




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