おかえりなさい、あなた

「ねえ、そろそろお鍋の用意しようよ」
 結花はもうだいぶ前から出来上がっている。上機嫌でワインをガブガブ飲んでいる。

「もう? いくらなんでもまだ早いよ。お母さんもまだ帰ってきてないし、きっと帰り道で何か買い足して来ると思うんだよね。待ってた方がいいと思うけどな」
「え〜〜〜お腹空いちゃったよ」
「お腹空いたって…… あんたお昼からずっと食べっぱなしの飲みっぱなしだよ!」
「いいのいいの、お祝いなんだから。そんな小さなことにこだわらないの」
「今からこの調子じゃ、夕ご飯の頃には寝てるよ、きっと」
「だから早めに始めようねっ!」
「四十になろうかって独身女はこれだからイヤだよ」
「何言ってんの、あんたに言われたくないよ」
 ワイングラスを持ったまま、結花はぷいとベランダに出ていってしまった。

「いつ来てもここはいいわ、海はいいわ、やっぱ。
 あんた、引っ越して正解だよ。あんな山奥じゃ、人間暗くなるばっかだよ。この広い大海原見ながら暮らしてると、イヤなことなんかすぐ忘れられそうだよ」
 早春の房総半島は明るく美しい。確かに、東上線沿線に比べれば穏やかな春が長く続く。
「結花もここで暮らす?」
「そうだな…… でも部屋あるの?」
「お母さんと一緒に決まってるでしょ」
「おばさんとかぁ…… 結花様もついに老老介護に足を突っ込むわけか。ダメだ、暗澹としてきた」
 麗らかな早春の昼下がり、都心に比べると確実に早い春の陽ざしが差し込んでいる。部屋は風が吹き込むくらいでちょうどいい。

 あれから五年の歳月が流れていた。
 母と相談してあの坂の上の家を手放し、ここに引っ越してきてからでも三年の月日が経っている。

 さすがにベランダに長く居ると体が冷えるらしい。しばらくすると結花がブルブルと震えながら部屋に戻ってきた。
「あれから五年? あっと言う間だね。正直なところ、ぶりっ子のあんたがここまで決断できるなんて思いもよらなかったよ」
「そう? だけど、決断も何も、この選択肢しか思い浮かばなかったんだよね」
 あの日、高島さんからのメールを読んだ後、身体の変調とともに、私はそれまでの自分と決別する覚悟を固めた。不思議と何の迷いもなかった。
「そうなんだ…… 東松山でグチャグチャ言ってた佳矢と、とても同一人物とは思えないよ。貫禄も出たしさ、アハハハ」
「アハハハ、なんかね、そういうの言われても気にならなくなったよ」
「女捨てたか? なわけでもないから、悔しいんだよなぁ」
「結花は女捨てたんじゃなく、男になりつつあるよね。最近、ヒゲ伸びてきてるんじゃない?」
「バカヤロー、私のテクニックで男どもはみんなイチコロだよ、寄ってきたらの話だけどさ、アハハハ」
 結花は信用金庫の営業マンと仲良くなったという話を最後に、浮いた話を聞かなくなった。今は彼女の兄が経営を継いだ印刷会社がデザインを中心にしたソフト路線に転換し、彼女はその中心で活躍しているようだ。あの恋に生きる結花が、今は男よりビジネスだと言い始めた。

「あんたはホント、絵に描いたような幸せを手に入れちまったね。人生ってわかんないもんだ」
「幸せか…… 幸せって、ただの幸運でしかない気がするけどね」
「そうだよ、幸運だよ、もうあり得ないほどの幸運、それに尽きるよ。だって、あんた何か苦労した?」
「うーん、苦労はしてないね。ただ、信じられない幸運に感謝してる。あり得ないと思ってるよ」
「そうだよ、あんた、感謝しないとバチが当たるからね、絶対」

 そうだと思う。
 まず母親に恵まれた。あの時、会社をやめてこの地に移り住むと言い出した私の話を、最後まで聞いてくれた。反論して言い負かすためではなく、私の覚悟と将来を確かめるために、辛抱強く相談に乗ってくれた。そもそも、あり得ない話だと思っている。

「ただいまー!」

 私の幸運が戻ってきた。
「おー! 遼平くん! 何処行ってたんだよぉ〜 おねえちゃん待ちくたびれたよぉ〜」
 四歳になる息子の遼平。顔の造作は私に似ているけど、輪郭があの人に似ていることは、私にはわかる。
「ほら、おねえちゃんからのお土産、これ、車なのにロボットに変身するんだよぉ〜」
 結花は遼平をやたら可愛がる。遼平が春から幼稚園に入園することになり、お祝いに来てくれたのだ。ここに来るたびにギュッと抱きしめて離そうとしない。
「おばちゃん、オチャケクチャい」
 遼平はアルコール臭全開の結花に閉口気味だ。
「おねえちゃん、でしょ‼」
「そりゃ無理だわ、結花ちゃん。そんな酔っ払いは、そのうち遼ちゃんからおじちゃんと呼ばれちゃいますよね〜」
 外から戻ってきた母が、結花を相手に遠慮のない物言いをする。だが、それを受け流す結花も昔のままだ。
「おばさん、不幸な独身女にはもうちょっと愛の手を差し延べてもらわないと。これでもガラスのハートですからね」
「じゃあ一度誰かに身も焦げるほどの熱で溶かしてもらって、頑丈なビアグラスにでもしてもらいなさい。相手はいるんでしょ?」
「いたら週末にのこのこ鴨川まで来ませんよ!」
「あら残念。こんないい女を放っておくなんて、世の中の男どもは見る目がないねえ」
「男はもう十分。でも子供が欲しい〜〜、遼平が欲しい〜〜」
 そういうと、彼女は嫌がる遼平を無理やり抱っこした。もらったおもちゃで遊び始めてた遼平も、絶対に叱らない結花の膝の上は心地いいらしく、そのうちちゃっかり結花の膝に上に収まった。
「遼平くんは見る度に大きくなるなあ。生まれたときはこんなちっちゃかったのに」
 結花が指先で十センチくらいの大きさを示して遼平をからかっている。遼平は、そんなに小さくないと言い張り、両手をいっぱいに広げてみせる。

 春の陽ざしが部屋に差し込んでいる。いつにも増して明るく穏やかに、いつまでも翳ることなく、この部屋を暖かく包み込んでくれている。

 ガチャン。

 玄関ドアの開く音がする。
「あっ、パパだ!」
 遼平が結花の膝から飛び降りて玄関に向かう。
「おー、遼平、ただいまー」
 彼が遼平を抱き上げてリビングに入ってくる。
「おかえりなさい」 母が迎える。
「お邪魔してます」 結花が迎える。
「おー、いらっしゃい。
 ただいま」 彼が穏やかに微笑む。

「おかえりなさい、あなた」

 私の大切な家族と友人が揃った。私は幸せだ。

 京極佳矢四十歳。私はこの人と幸せを掴んだ。いや、彼が私に幸せを運んでくれた。幸せはやっぱり向こうからやってきた。


(完)

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