「佳矢…… ごめん…… 切るね。…… また」
そう言うと、電話は唐突に切れた。会話しているあいだ中張りつめた緊張の糸が、ピチッと甲高い音を立てて切れたような気がした。
何を話したか思い出せなかった。話しながら、必死に彼の気配を探ろうとしていた。彼の思いがどこに向いているのか、私との電話を嫌がっていないか、家の人の様子を気にしていないか、身体に負担はかかっていないか…… 受話器の向こうから聞こえてくる微かな物音に全神経を集中していた。だから、電話を終えると、どっと疲れが出た。
(病気は本当のことだったんだね……)
あれだけ集中して探り出そうとしたのに、解ったことと言えば、彼は本当に病気だったと確認できたことだけ。
(遼ちゃん……)
電話をする前と後で、私の不安は何ひとつ解消されていないことが辛く悲しかった。彼が私の誕生日を忘れずにいてくれたことの喜びなど、微塵も残っていなかった。
(お見舞いに行こう……)
心に決めた。誰がなんと言っても、彼に会いに行こう。そうだ、あのサイン本もまだ渡していない。あれを見せれば、きっと彼も元気になるはず。そう思った。
ずっと流れていた涙がようやく乾く頃、京極さんからのメールが届いた。
『はい、今日のおすすめ』
その言葉とともに、タリーズコーヒーのテイクアウトカップの写真が送られてきた。
京極さんに罪はない。悪いのは私だ。そう思うと、このまま彼の好意、思いやりを受け続けるのはもうやめるべきだと思った。
『こんばんは。いつもありがとうございます。
せっかくなのですが…… 京極さんにお話ししておきたいことがあります』
『えっ? 急に何? 怖いな』
唐突だった。自分の送った文面を見て、あまりの身勝手さが嫌になる。
でも仕方ないと思った。もう、彼には縋れない。
『私、勝手です。身勝手です。ごめんなさい、でも、もう隠せないです』
『それ、言わなきゃだめ?』
一瞬たじろいだ。私は何か重大な過ちを犯しているのかもしれないと思って急に恥ずかしくなった。もし、京極さんが、ただの同僚としてメールしてくれているのだとしたら、私はなんと酷い勘違い女なんだろう。
『すいません…… 』
言葉が見つからなかった。
『身勝手は僕も同じだよ。詳しいことは知らない。だけど中澤さんの悩みの原因は想像ついてる。そして、その悩みが報われぬ決着に終わることを、僕は密かに願ってきた。身勝手にもずっと』
彼が鈍感じゃないことは薄々感じていた。彼のような気遣いのできる人が、私の分かり易い反応が何に由来するか、そのことに気付かない訳がないと思っていた。だから、本当は彼のことが怖かったのかも知れない。私の身勝手な恋を、いつか容赦なく切り捨てられる気がして怖かったのだ。
『そうですよね、京極さんが気付かない訳ないですよね。失礼しました。だから、ごめんなさい。私、今、ちゃんとメールにお返事することもできそうにないです』
『電話で話せない?』
彼のことは嫌いじゃない。でも、遼ちゃんに対して思ってる気持ちとは明らかに違うことに、もうはっきり気づいた。
『せっかくですが、それはお断りします』
自分でも驚くほどきっぱり言い切った。ちょっとだけ、後で悔みそうな気もしたが、もう後の祭りだ。
『そうですか。そんなに嫌われたら仕方ないね』
『嫌ってなんかいません!』
速攻で返信した。我ながらイヤらしい女だ。ヘドが出る。
『中澤さん、僕は君が好きだ。だから、君が嫌がることはしない。だけど、好きだから聞きたくないこともある。知りたくないこともある。でも、もし、君が僕に吐き出して済むことなら、僕はそれを僕の心の奥底に深く沈めて、二度と僕たちの目の前に現れなくさせることはやってみせる。その覚悟で電話していいかと訊ねた。
もう一度訊く。電話していいか?』
(京極さん…… 今日じゃない…… わかって)
何も返信できぬままに時間が過ぎた。
深夜、彼から電話があった。その電話にはどうしても出ることができなかった。
それからは毎日、良い知らせと悪い知らせの両方を想像しながら、高島さんか駒井くんからのメールを待った。その知らせが一日遅れると、その分悪い知らせの可能性が高まる気がしたが、同時に、悪い知らせを受け取った時の衝撃も小さくなるような気がした。
京極さんからのメールも途絶えた。ただ、毎朝いつもと変わらずにこやかに朝の挨拶をしてくれる。必ず彼からおはようと声をかけてくれる。その優しさだけで、私は救われた。彼に対する負い目を彼自身が感じさせないようにしてくれている誠意を感じた。
十二月の初頭にはかろうじて残っていた広葉樹の赤や黄色がすっかり落ち果てて、目の前の景色から彩りが消えた。年末年始の喧噪がまるで感じられない中で静かな一年が始まり、遼ちゃんの四十三歳の誕生日が過ぎ、彼と初めて房総半島をドライブした時と同じような小春日和が続いた。
二月最初の土曜日、私は海辺のマンションにひとりで出かけた。
夕方、初めてここに彼を招き入れた日のような、黄金色に輝く太平洋が眼下に広がった。あの日の彼と同じ場所に立ち、徐々に色を失う海の様子をずっと眺めた。刻々と色調が変化する様がわかる。いつか、ドライブの最中に黄金色に輝く海辺が美しいと彼に語りかけると、徐々に色を失う海辺は寂しいと語った彼の横顔を思い出した。
時は止まらず、陽の光はいつか消え失せてしまうことを、彼は自分の命の光や義父の命の光と重ね合わせていたのかもしれない。それか、家族という絶対的な存在さえ、いつかはこの輝きが失せるように儚くなることを思ったのかもしれない。
そんな時、果たして彼の中に私は居たのだろうか? 彼といても、たとえ抱き合っていても満たされることのなかった原因のひとつには、彼がこの景色を眺めるときに、私の姿がそこになかったからではなかったか。
今更考えても仕方のないことに囚われる自分の不幸を寂しく笑って受け止めるしかなかった。
もう帰ろう……
そう思ったところで携帯が鳴動した。
差出人、高島優菜……
覚悟を決めて、メールを開いた。
その時同時に、私は強い吐き気を催した……。