恋人?

「おはよう!
 もっと前に座らない? 私、黒板の字がよく見えないの」
「あ〜、ごめん…… 前はちょっと」
「そう……。 じゃあ、あとでね!」

 授業が始まると、舞は必ず最前列か二列目の席に移動した。綺麗に髪をひっつめて、細身の背筋をいつもピンと伸ばしている。確かに気にし始めると彼女はとても目立つ存在だった。
 彼女が席を移ると、一縷はいつもの通り窓の外に視線を移す。最近の彼は、青白い顔にもやや赤味が差し、どことなく表情も柔らかくなったように見えた。

 授業が終わると舞は一縷の傍に戻り、教室の移動やランチに向かう時は並んで歩いた。それまでいつも一緒だった未来は、バドミントン部の連中や他のクラスメイトと行動を共にすることが増えた。
 彼女と並んで歩くと周囲の視線が集まる。しかし、知り合いの少ない一縷は当然としても、舞にも特段話しかける者がおらず、一縷同様知り合いの少ない様子はやや意外な気がした。
「舞は地元の高校だろ? 知り合いもたくさんいるんじゃないの?」
 気になった一縷はそう彼女に問いかける。
「女学院高校だよ。何人かいるけど、あそこはエスカレーター式に大学に上がる人が多いから、ここは少ないの。仏文は誰もいない」
「そうなんだ」
 一縷の顔に安堵の表情が浮かんだ。

「小さい頃からバレエばかりしてて、あまり普通の友達がいないんだ」
 彼女は悲しそうにそう話した。一縷は逆に嬉しそうな笑顔になる。
「ボクも口をきくのは同級生のふたりだけ。未来ともうひとり薬学部の子だけ」
「そうなんだ。薬学部の子って女性?」
「うん、幼馴染。幼稚園の時からずっと一緒」
「へぇ~。ちょっと気になるかも……」
「幼馴染だよ。庭の大きな木の下で素っ裸で並んで撮った写真もあるくらいだよ」
「イヤらしい……」
「えっ? 一歳とか二歳の頃でも?」
「うん、イヤだ」
 一縷はなぜか嬉しかった。

「舞はヤキモチ焼き?」
「うん。すごく」
「…… そうなんだ」
 一縷は抑えようとしても笑いが止まらない。
「おかしい?」
「おかしくない。嫌いじゃないよ、ヤキモチ焼きの子」
「だって、一縷ってモテそうなんだもん」
「えっ! 言われた本人びっくり‼」
「だって、出会ったその日に呼び捨てしていいかなんて、一縷以外の人に言われたことないから、一瞬、この人…… って思ったよ」
 彼女は屈託なく笑った。

 晴れやかな青空が広がっていた。一縷の笑顔は中学生の頃の無邪気な笑顔に戻ったように見えた。

「ところであの本、翻訳始めた?」
「ううん、一縷と一緒に読もうと思って手付かず」
「じゃあ、そろそろ取り掛かる?」
「うん! 良かったらお家に来る?」
「えっ…… だって家族もいるだろ?」
「平気平気! 昼間はお母さんと妹だけだから、全然平気!」
「それを聞いたらなおさら行けない……」
「えーっ! どうして⁉」
「何話したらいいかわかんないよ」
「えーっ! ホフマンの舟歌歌う人と友達になったよってお母さんに話したら、会いたい〜、って言ってたのに」
「…… 絶対行けない」
「が〜〜〜ん…… ケチ!」
「お前がハードル上げるからだよ!」

だって……」

「あっ、ごめん」
「初めて言われた……」
「ごめん」
「ドキっとするものなんだね……」
「…… ごめん」
「一縷……」
「ん?」
「私たちは恋人?」
 一縷は驚いた顔で舞の顔に釘付けになる。舞は変わらぬ笑顔で一縷を見つめ返している。先に目を逸らした一縷を見て、舞が軽く一縷の左肩を押した。

「もぉ〜〜〜、そう思ってない! ショック〜〜〜‼」
 軽く押しただけだが、一縷は手にしたコーヒーを溢しそうになり、慌てて椅子から立ち上がる。その様子に舞は足をバタつかせて喜んだ。


◇ ◇ ◇


 夜、伊咲から電話があり、ゴールデンウィーク最初の土曜日にバーベキューすることになった。入り江の島に渡れば、何も準備がいらないお手軽なバーベキュー施設があるらしい。

「遠くない?」
「そんなことないよ。でも、嫌なら一縷のアパートから歩いていける場所にもあるけど、そっちにする?」
「たかがバーベキューに船にまで乗らないでしょ、普通」
「じゃあそっちね。帰りは一縷のところでシャワー借りよっと」
「なんだよ、寄るつもりかよ」
「悪い?」
「多少、邪魔」
「まさか、あの子と付き合い始めたとか?」
「誰?」
「ひっつめ髪」
「あ〜、あの子はそんなんじゃないよ」
「…… じゃああっちか」
「お前の想像力は凄いけど、大概外れてるよ」
「どうだか……」
「あのねえ…… 伊咲にはホント感謝してるけど、そっちに引っ張り込むのやめろよな」
「引っ張り込むって人聞き悪いね! あんたが意気地なしだからだよ‼」
「幼馴染って、大人になるとこんなに面倒くさいもんになるのかね」
「失礼しちゃうよ、全く。まあいいわ。幼馴染の意見では、あっちはイヤだ。なんとなくイヤらしい。なんか想像しちゃうからイヤだ」
「なんの想像だよ…… 伊咲、欲求不満なの?」
「なっ、何言ってんの‼ あんた失礼にもほどがあるよ!」
「あっ、そう。じゃあ、ひっつめなら誘っても文句ないよな」
「マジで言ってる?」
「来るか来ないかは知らないけど、誘うだけ。素直で良い子だよ。伊咲とは合うと思うけど」
「ふ〜ん」
「ふ〜ん、って何だよ」
「連れてこない方がいいと思うな」
「なんで?」
「先週、一縷の部屋に泊まったことバラすかも」
「別にただ寝て帰っただけだろ?」
「一縷のベッドで寝たって言うかも」
「別に一緒に寝てないよな」
「朝方、抱き合ったって言うかも」
「…… 未来がショック受けるだろうな。あいつ、大学辞めちゃうかもな」
「…… 卑怯者」
「どっちがだよ!」
「アハハハハハ、まあいいや、連れておいでよ。私はいいよ。多分、未来も賛成だと思うな」
「一応、誘うよ。伊咲、アリガトな」
「ちょっと悔しい気もするけど、やっぱり一縷とは幼馴染の方がいいかも、ってこの前思った」
「そうだろ? それがいいよ、長い付き合いができて」
「仕方ない」
「お前がもうちょい色っぽかったら、ヤバかった、アハハハ」
「あの子はそんなに色っぽい? そんなタイプじゃない気がするけど」
「ああ。だからただの友達だよ」
「ふ〜ん…… じゃあやっぱりあっちが本命か……」
「どうだろうな…… 今はまだわかんないよ」
「あの人、なんか怖いんだけど」
「うん。すげー気の強いところはあるな」
 会議室から出て行った涼音の後ろ姿が蘇った。
「そうなんだ。じゃあ、年上の色っぽい人に、な田舎者が憧れたって感じ?」

 そうだったかもしれない…… そうでなかったかもしれない。
 一縷は『憧れ』という言葉より、もう少し重苦しい感情が胸の内あるのを自覚していた。




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