ターミナル駅から西に向かう終バスは、いくつかの停留所を飛ばしてさらにスピードを上げた。小刻みに揺れる薄暗い車内は乗客もまばら。オレンジ色の料金表示と赤い降車ブザーだけがやけに目につく。
いつもなら、周囲の様子にはまるで無頓着に仕事のことだけ考える遥だが、今夜は車窓に映る生気のない自分をぼんやり眺めている。
(こんな顔してんだ……
アラフォーだし、色気…… ないね)
薄暗い車内灯の下で映えるはずもないが、これまでそこそこ自信を持ってきた自分の容姿が、冷静客観的に見れば年相応に疲れを隠せないことに気づく。ほうれい線あたりの陰影が、頬を膨らませてもまた元に戻ることにうんざりして、遥は暗闇に視点を移した。
仕事には容姿以上に自信があった。小規模とはいえ、首都圏近郊の支社を任された女性は自分が最初。一般職からのコース転換でよくもここまで、とすら思う。この数年間、終バスの中でもひたすら支社目標の進捗を確認し、明日やるべき業務をシミュレーションしてきた。マネジメントを任されたものとして、そうすることは当然、くらいに思ってきたのだが、
(…… ばかばかしい)
はぁ~、とため息がひとつ漏れた。考えれば考えるほど虚しさが募る。
夕方、本部長から残留の内示を受けた。そろそろ本店? との淡い期待は、たった数分の面談で木っ端微塵に吹き飛んだ。
『今年は勝負の年だな』
ニヤリと笑って、お決まりの文句で締めくくった本部長。あの時の憎らしい顔が暗闇の向こう側に浮かぶ。
(一体さぁ、何年同じ事言うつもり? その言葉にはもう踊らされないから。期待とか激励とか、ぜ~んぜん伝わってこないし……
所詮、女なんだから、このあたりで満足しろ、って風にしか
聞こえない。
禿! デブ!
同じ支社で五年…… いまさら、何をどう勝負しろってのさ。
うぅ~~~ イラつくぅ~~~!)
内示のときの禿デブの表情がはっきり窓の向こう側に浮かんでくる。少しでもセクハラまがいの言動があれば、即刻訴え出てやったものを……
(あの禿デブ、立ち回りだけはホント慎重!
ん?
禿デブはさすがにまずいか? ァハハ)
若手社員を真似て毒づいた自分にふと笑いが込み上げる。これこそセクハラ? パワハラ?
(フン、こっちが部下だから関係ないねっ!
でも、結構引き摺っちゃうんだよなぁ…… ダメだよなぁ……。
まぁ、考えても仕方ない! やめた! や~めた!)
本当はまだ割り切れたわけでもないし納得したわけでもない。それでも、このことは一旦忘れよう。
(そう、忘れよう…… 忘れようよ、遥っ!)
最後は自分自身を叱咤し、フンと鼻を鳴らしてみる。
(でもなぁ…… )
根は引き摺り女の遥。あきらめは悪い。いつまでもクヨクヨ考えている。
そうこうしているうちに終バスが終着駅ひとつ手前のバス停に近づいた。いつもなら我れ先にブザーを押すのだが、今夜は誰かに先を越されてしまった。
(ここでも出遅れかぁ…… って関係ないから、こんなこと)
思い直してゆらゆら立ち上がる。常に重いバッグを肩にかけると、いつも以上に肩にズシリと重みを感じる。バスが止まる間際におっとっと…… 危ないなぁ……。
重い足取りでバスのステップを降りる。目の前には、梅雨の合間の、星も瞬かない夜空が広がっている。
✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤
「内示出た?」
バス停にはいつも通り、夫の恭平が迎えに来ていた。マンションに娘をひとりで残すほうがよほど心配! 何度もそう言うのだが、彼は出迎えを止めようとしない。
愛されてる証拠、誰に話しても、きっとそう言われるんだろうけど。でも、今夜はちょっとだけウザい。
(訊かれたくないことを何の遠慮も躊躇もなく訊いてくるのって、どうなのよ……)
「そっかぁ…… まぁ、人生思うとおりにはならんもんだよ。また頑張るさ」
な~んも答えてないのに、ひとりで合点する彼……
(えぇえぇ、そうですとも。明日からまた毎日毎日、同じことの繰り返しですわよ!)
…… 察しはいいのだ、彼だって。こう見えて、私が結構ショックだってことはわかってくれているはず。
(いや、察しが悪い男だとしても、さっき車窓に映ったアラフォー女子の疲れた顔をみれば、こういう反応になって当然なのかも……)
どうにもこうにも、今夜の遥は自信を取り戻せそうにない。
「重い! これ持って!」
パソコンやらなにやら、ごちゃごちゃと詰め込んだバッグを、有無を言わさず彼に手渡す。そんなことしなくても、あと数歩も歩けば、きっと彼がそっと肩の荷を降ろしてくれるだろうに…… わかってても待てない時だってある。
「相変わらず重いね」
それだけ言うと、彼は重いバッグをこともなげに肩にかけ、ゆっくり歩き始めた。
バス停からマンションの敷地まで、けやきの並木が黒い影を落としている。いつもより少し速度をゆるめ、ふたりで並んで歩いた。
「今日はね、知佳が珍しく料理したんだよ。あいつ、受験勉強より、こっちのほうが楽でいいよ、な~んて言っちゃってさ。それなら毎日やれ!っての、なぁ、アハハハハ」
彼はいつものように何気ない家族のシーンを語り始める。大抵は娘のことで、毎日ごく平凡に過ぎ去ること、赤の他人なら見過ごしてしまいそうなことばかり。だけど、彼はそんな話を部屋に辿りつくまで、飽くことなく話し続ける。その毎日の当たり前のことが、今日は…… ちょっとだけイラつく。
「『今年は勝負だな』、だ~ってさ」
悔しいから禿デブの口真似をして言ってみる。
「その常套句、まだ使ってんだ。変わんねーなぁ」
ホントは仕事の愚痴なんて言いたくもない。同じ会社を辞めた彼にはなおさらのこと。
しかも、彼からは一般職から総合職にコース変更した際、はっきり言われてる。
『仕事のためにこれまでの生活が変わるんだったら、ボクは嫌だからね』
だけど、そんな言葉とは裏腹に、彼は何も言わず全ての変化を受け入れてくれている。今は、自由になる時間の大半を家事に割いてくれてさえいる。
(そのことに感謝してるよ。決してそれが当たり前なんて思ってないからね)
そっと彼の背中に呟いた。
(でも、本当のところ、恭ちゃんはどう思ってんだろ?)
ふと、そんなことが気にかかる。
「もう辞めちゃおっかなぁ…… また一般職に戻してくれって、言ってみよっかなぁ……」
本気でもなんでもないただの愚痴。幸いなことに、大人の彼は黙ってそれを聞き流してくれた。
「今夜さ、ワインでも飲みながらサムライブルー、応援しちゃう?」
「そっか! 今夜は第三戦目だっけ? ユニフォーム着ちゃう?」
「アハハハハ、日韓の時の持ち出すの? こっ恥ずかしいよ」
「別に部屋の中だからいいじゃん……。 あっ、そっか! 恭ちゃん、お腹が窮屈なんだ!」
そう言って、遥は恭平の、どでん、としてしまった腹を撫でて笑った。
その感触は意外なほど心地よく、なんとなくもやもやが晴れて、そしてなぜか…… ホッとした。