週明け、遥の留任人事が発表になった。
…… 誰からも特段の反応なし。
唯一、嘱託社員の美濃さんが「ヨロ」と片手を挙げる。
(このクソ爺…… どうもシャクに触る)
そんなことはさておき、今度は遥が内示を伝える側だ。
(まさかとは思うけど…… 禿!デブ!なんて言わないでね…… 禿てないんだし……)
「えーっと、朝礼のあと、順番に人事考課のフィードバックを行います。誰からにしましょうかね。くずは……」
支社長代理の名前を言いかけた途端、美濃さんがサッと右手を挙げた。
「私、一番にお願いします。定期訪問がありますんで」
元自衛官の美濃さん。右手を上げる時の動作が素早い!
ということで、美濃さんから順にフィードバックが始まった。
美濃さんに続いて、支社長代理の葛原、ベテラン女子の小山さん、二年目社員の宇多と続き、考課はないけど、パート社員の遠藤さんと和田さんの話も聴いた。
ん? 唐澤どうした?
主任の唐澤がまだやってこない。本日のメインイベントと知ってか知らずか、伝えなきゃならないことがある人物だけがなかなかやってこない。のそのそ会議室から出てオフィスに戻り見渡すが姿がない。取引先のところへ出かけたまま、まだ戻っていないようだ。
「唐澤君が戻ったら会議室に来るように伝えてください」
そういい残して部屋を出ようとすると、宇多が何かいいた気な目で訴えかけてくる。
「ん? どうかした?」
「いえ…… 唐澤さん、異動かな〜って……」
かわいいもんだ。二年目の彼女にとっての関心事が手に取るように解り、遥の頬がふっと緩んだ。
「今日は、まだ内示だからね」
人事異動は膨大なチェーンだ。彼女のささやかな希望が省みられることなどあるはずもない。
だが、彼女の個人的な願望はさておいても、同じオフィスで働く仲間の行く先をわが事のように一喜一憂するアットホームな支社になっているなら、それはそれで悪くないな、と少しだけ嬉しくなった。
会議室に戻り、改めて唐澤の考課シートを眺める。自分と同じタイミングで異動してきた彼。きっとこの場所を希望したわけでも、まして、私のような女性上司を好んで選んだ、ってこともあるまい。懸命に働いてくれただけに、きっと何度かはぐっと自分の感情を押し殺した瞬間もあったに違いない。
自分はもう一年ここで同じ仕事を繰り返す。対して唐澤の新任地は……
(まぁ、異動適正「○」で上に報告したのは私だしなぁ……)
そんな取り留めのないことを思っているところに、コンコン、と軽やかにドアをノックする音が響いた。
「遅くなりましたっ!」
勢いよく飛び込んできた唐澤。見慣れた顔だけど、こうやって改めて真正面からまじまじ眺めると、ずいぶん大人になったものだわ……
(いかんいかん、これって立派なセクハラ? パワハラ? え~い面倒くさい!)
瞬時に湧き上がる様々な感情をもてあましながらも背筋をシャキッと伸ばした遥。いつもより厳かな声を腹の底から響かせた。
「えー、唐澤主任。一年間ご苦労様でした。その働きの結果はこのとおりです。そして、七月からは……」
屈託のない笑顔…… この笑顔ともさよならか。
✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤
「えっ……」
意に反し、唐澤は異動先を聞いて絶句してしまった。じっと遥の目を見詰め、それは確かなのか? そう詰問するようでもある。
「あれ? なんか違った?」
(名称、言い間違えた?)
思いもよらぬ唐澤の反応に、遥は一瞬、またやらかしてしまったか、と目の前の異動表を裏返して見直した。
ほんてん とうごう えいぎょうほんぶ きかく いちぐるーぷ 勤務
(間違えてないじゃん)
「えーっと、本店の場所、わかるよね?」
そんなふうにボケてみたものの……
「…… 」
な〜んの反応もなく不機嫌な目を向けたままの唐澤。どーなってんのさ!
「一応訊くけど……不満? というか何か異動を受け入れられない事情でもありますか?」
今日は内示だ。建前ではこの異動を受け入れるかどうかの判断を一日だけ待つ、ってことではある。
が、この段階で社命を拒むなんて話は聞いたこともないし、まして、異動先は花の本店、さらには、出先機関を手足のごとく扱う統営にご栄転!……
(そんな辞令を拒むサラリーマンがどこにいるってのよ!)
「ねえ、唐澤君さぁ。もっと素直に喜びなよ。君らしくもない……
うん…… らしくない! 喜べ唐澤! ご栄転だ! おめでとう!」
(いやなら私が代わってもいいんだぞ! くらい言ってやろうか?)
「…… 」
そんな遥のひとり芝居に付き合うつもりのないらしい唐澤はまだ黙りこくったまま。
(仕方ない、本人了承済みで報告してしまおう……)
「…… お祝いは明日にでもしようよ。
さてと…… なにもなきゃ、仕事に戻るよ。いい?」
思いがけない無言攻撃に耐えかねて、遥はよっこらしょと声を出して席を立とうとした。それでも唐澤は正面を向いたままだ。仕方なく、遥は上げかけた腰をもう一度下ろした。
「どうしちゃったの唐澤君…… 唐澤さん! 唐澤慶太郎さん!」
つくづく人は難しい。おだてれば喜んで木に登る人もあれば、胡散臭いとそっぽを向く人もある。四年前の今頃、自分は有頂天になり、まるで世界の頂点に立った気分で辞令を受けた。
だが、先週末、本部長席から帰る頃には、あの禿デブにブラジル沖まで地中深く穴を掘って埋められた気分にさせられた……
だからといって、三十にも満たない若造が、この人事の四年先のことを憂いて渋い顔をしてるとも到底思えない。
「からさわぁ、私たちは所詮宮仕えの身ジャン。あっちへ行けといわれればハイハイと従うものだよね? 違った?」
違うに決まってる。いまどき、そんな滅私奉公など、あの禿デブですら思っていないに違いない。でも…… こんな言葉しか思い浮かばない。
遥はつくづく自分の無力を思い知らされる。
(そうだよね…… こんなだから来年もここなんだね…… わかったよ、禿デブ……)
そんな遥の頭の中を見透かしたわけでもあるまいが、唐澤が発した言葉に、遥はふぅ〜、と気持ちを持っていかれそうになった。