詩音と祖父

「シオン、ここでちょっと待ってておくれ」
 ロマンスグレイの髪を綺麗に撫でつけた老紳士が、花屋の店先で連れの少女にそう告げた。
 ターミナル駅東口の繁華街は秋の夕暮れ時を迎えて気忙しい。だが、百貨店の角を入った裏路地は人通りもなく、周囲の喧噪から逃れた異界のような佇まいだ。老紳士と少女のほかには、店先に並べられた花たらいだけが路上に長い影を伸ばしている。

 詩音シオンと呼ばれた少女は花には興味がないらしく、花屋の裏手に広がる空き地の入り口に移動した。壊されたビルの残骸がところどころに放置された空間には、かつて軒を接したビルが背を向けるように立っていて、表通りの化粧面とはまるで異なる乱雑で無防備な姿を晒している。少女は朧な記憶でも辿っているのか、百貨店の裏口から現れた若い店員にずっと見られていることにも気がつかず、敷地の奥に横置きされた古い看板を顔を傾げて眺めている。

 そんな少女を時折気にしながら、老紳士はかれこれ十分近くも花盥を覗き込んでいる。が、なかなか求める花が決まらない。りんどうかガーベラか、そこまでは絞り込めたようだが、両手にふたつを持ち比べて何度も首を捻っている。思案のあげくようやく色違いのガーベラに決め、自分を納得させるように何度か小さく頷くと、それを小柄な店番に手渡した。
 店番はそれらに淡色のガーベラをいくつか足し花束に纏め始めた。彼女の手の中で、花々はまるで魔法にでもかかったかのように華やぎを増し多色の調和美を奏でる。その手際の良さとセンスに老紳士は満足そうな笑みを浮かべ、テーブルのカゴに数枚の札をそっと置いて礼を述べた。店番はただ笑みを返し、お代がどうだと言う様子もない。遠目には常連客との間で幾千回となく繰り返された決まりごとが、今も淡々と行われただけのように見えた。

「待たせたね」
 老紳士が呼ぶと、少女は振り向きざまに穢れない笑顔を見せて駆け寄った。
「お前は女の子だから花束は貰う方だね」
 落ち着いたソフトバリトンが孫娘を包み込む。手元の鮮やかなガーベラが挿し色になって老人の表情を幾分明るく見せている。少女は紳士の左腕にさり気なく腕を絡ませ、優しい付き添い人のようにゆっくり歩き始めた。

「この空き地には何があったの?」
 少女が自分よりニ十センチは上背のある老紳士を見上げて尋ねる。老紳士は少し遠い目になって、映画館、と短く答えた。
「こんなところに? シネコン?」
「いや、ロードショーの上映館がふたつ並んであった」
「ふ~ん」
 少女は頭に浮かんだ窓のない建物に先ほど眺めていた古い看板を立て掛けてみたが、人の集う映画館のイメージからは程遠い。
「おじいちゃまも誰かと映画を見た?」
 無邪気にそう聞く孫娘に、祖父はあまり表情を変えず、もう昔のことだ、と話を打ち切り、買ったばかりの花の淡い香りを確かめた。

 毎週木曜日、老人は着飾り、淡いコロンの香りに包まれてある店を目指す。その道すがら、必ずあの花屋に立ち寄り、その日の花を買い求める。半年前、心臓の発作で倒れてからも止めないこの習慣に、杖代わりの付き添いを始めた孫娘は隠された浪漫を感じ取り、その花束を受け取る人のことをいつか聞いてみたいと思っていた。

「その花束は誰にあげるものなの?」
 孫の直截な質問に、老人は無粋なことを訊くとでも思ったのか、おやおや、という表情で少女を見下ろした。
「お店に行くとき、花束を買っていくのは普通のこと?」
 素直で汚れない詩音の瞳に根負けしたのか、老紳士は古い記憶を辿りながら語りだす。
「そうだね。ここらで古くから店に通うものは、あの花屋で必ず花束を用意したものだ。ただし、それは決まった店の決まった人にだけ差し出すもので、一見いちげんの客がそんなことをしては無粋を通り越して無礼だし、無闇に豪勢な花束を贈るのは下品だ。そういう塩梅というものを、昔は大人たちがそれとなく教えてくれたものだよ」
 昭和という時代の貧しい街角にあって、約束の花を取り交わした人々の姿が脳裏に浮かび、詩音は今とは違う浪漫に思いを馳せた。祖父は未だその世界の中にいる、そんな気もした。

 ふと、祖父の横顔に、ある日の祖父が重なった。それは祖母の葬儀を終えた数日後のことだった。
 薄暗い闇に沈んだ自宅の庭で、祖父はあろうことか祖母の写真を全て焼き去ろうとしていた。何度も何度も繰り返し火をくべたらしく、大半は白い炭に変わり果ててしまっており、それを見た娘である母は金切り声で祖父を罵った。
 しかし、祖父はたったひと言、思い出の中に生きてくれればそれで十分だと語り、そのまま書斎に籠もり、しばらくは誰とも会おうとしなかった。
 母はあの日の祖父の非道な仕打ちを決して許そうとせず、未だにロクに口もきかないが、父は祖父はそういう愛し方をする人だと理解を示した。当時中学生になったばかりの詩音に父親の言う意味はわからなかったが、こうして遠い時代を懐かしむ祖父の傍らには、きっと写真では残しきれない祖母の姿があるのだろうと、少し大人に近づいた今なら想像できる。だから、祖父が花を贈る相手は、きっと祖母の面影をどこかに感じさせる人なのだろうと、孫娘は勝手に思い込んだ。

「おじいちゃまは素敵ね」
「そうかい?」
「うん。でも今は愛してます、って言うより、大好きで十分な時代よ」
 孫娘の言葉に、老紳士はやれやれと両手を傾げてみせたが、それがロマンスグレーの彼にはお似合いで、少女はこのちょっとスマートな祖父が嫌いではなかったから、再び彼の腕に凭れかかり、穏やかで穢れない笑顔を向けた。


 路地は国道でその先を一度阻まれる。
「詩音、ここでいいよ」
 国道に沿った歩道で老紳士が立ち止まり、少女に別れを告げた。そして、慣れた様子で信号待ちの車列をかわし道を渡ると、反対側の歩道から少女に向けて花束を軽く持ち上げた。
 少女がそれに応えて大きく手を振ると、紳士は一瞬だけ口許を緩ませたのち、あとは一度も振り返らずその先を真っ直ぐ進んで行く。背筋をピンと伸ばした後ろ姿は古い映画のラストシーンのようにも見え、コツコツと規則正しい革底の音までが聞こえてきそうだった。

 やがて老紳士は路地の突き当り手前で古い格子戸を潜る。それを確かめて、少女はようやく歩道を歩き出した。百貨店の角を左折し、今度は明るいショーウィンドウを姿見にしながら駅に向かう。時には百貨店前の大通りを横切って古い商店街に寄ることもあるのだが、今日は真っ直ぐロータリーのバス停に並んだ。

 夕暮れ迫るターミナル駅の東口は先を急ぐ人たちで溢れている。百貨店の手前を右に曲がり繁華街に向かう人、百貨店に吸い込まれる人、向かい側のアーケードに消える人。流れはそれぞれだが、それぞれに目的があり、立ち止まってビルを見上げる道不案内な人もいない。そんな急ぎ足を見ていると、少女は裏路地で祖父と交わしたことが何十年も昔にタイムスリップしたことのように思われてきた。今とは流れる時間が異なる世界に住む祖父が、国道を渡る瞬間に時間の隙間を飛び超え、歪んだ空間を跨いで行き来する不思議を見たような気がしたのだ。そしてその時に必要なキーアイテムがあの花屋で求める花束なのではないか、そんな空想を思いつき、詩音の顔は知らず知らずに綻んだ。


「あれ? シオンじゃね?」
 詩音を夢想から現実に引き戻すように、着崩したブレザー姿の女子高生が突然声をかけた。振り返ると、そこには頭ひとつ分大柄な、でもアルパカのような愛嬌のある顔が彼女を見下ろしていた。




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