美智子と早乙女、そして諸岡

 諸岡貴文は、細面に黒縁のメガネ、黒のハイネックに白く長い指と、いかにも若いころからの文学青年という風情で現れた。凉しい顔で早乙女の隣に腰を下ろした彼に、美智子は短くひと言、どうも、とだけ挨拶し、早乙女と同じ酒を彼の前にも差し出した。盃を受けた諸岡は白く細い指でそれを掲げ、ふたりに軽く目交めまぜして一気にそれを飲み干した。

 美智子が彼に抱いた第一印象は、、だった。健康的で形の良い爪先に気付いた美智子が、綺麗な指ですねと褒めると、横にいた早乙女が、指も綺麗だが彼の書く文字がこれまた美しい、と言い出し、彼が用件を伝えるために書いたという付箋紙を鞄から持ち出して見せた。
 そこにはまるで定規を当てて書いたような美しい文字が整然と並んでいて、もはやただの伝言というより、レタリングの見本のようですらあった。あまりに美しいので、美智子はそれを何度も読んでしまい、付箋紙に書かれた用件を丸ごと暗記してしまったほどだった。

 早乙女はこんな諸岡をとても可愛がった。余計な口出しはせず聞き上手な諸岡は、こういう場所に誘い出すには都合がよかったようだし、逆に諸岡にしても、年齢は倍ほど違うが、何事にもざっくばらんで垢抜けた老先生は、退官した偉い先生というより少し年の離れた義兄くらいに感じられていたのだろう。

 実際、話が合うというか、息が合うというか、ふたりが酒を酌み交わすと老先生が様々な話題を繰り出し、諸岡がそれに要領よく応え、話がどんどん飛躍することが多かった。景気がどうだ、世相がどうだ、政治状況がどうだなど、居酒屋でよく聞く話は聞いたことがなく、まして、健康がどうだ、体調がどうだなどという話は禁忌だが、それ以外なら硬軟どんな話でもふたりで盛り上がる。たとえ意見が真っ向から衝突しても、ふたりはなぜかそれを楽しめるようで、美智子はこんなふたりを、面白おかしく思ったり、時には癒しに感じたりもしていた。
 今日は老先生が趣味で書いている小説の話になったようだ。

「それにしても、時空の歪み、ってのを街中の花屋にもってくるのはどういう発想なんですか? まさか子供向けアニメと同じ意味ってことはないですよね?」
「似てなくもないかな。歪んだ時空の中で他人からはある人物の姿が幾通りにも見える、という設定だ」
「う~ん…… パーマンですかね。ドラえもんというより」
「パーマンねぇ…… 鼻を押すと何年か先の自分になる、という設定ならまさにそれだな」
 会話にアニメの名前を聞き取った美智子が口を挟む。
「パーマン? 珍しくアニメのお話しなの?」
「まあそんなところだ」
 老人は否定せず含み笑いで盃を重ねる。
「じゃあ入れ替わって見えた花屋の店員は、実は歪んだ空間の中で同時に見えた過去と未来、って設定はどうですか?」
 諸岡が突然何かに気づいたように声を上げる。大分酔いのまわった先生も、それそれ、過去と未来が同時に見える! いや、同時ではないな、時間軸も歪んでいるからなぁ、などとブツブツ言い始めたかと思うと、急に二人とも考え込んでしまった。

「ねぇねぇ、ホントに何のお話し? 私にもわかるように教えてくださいな」
 イマイチ仲間に入りきれない美智子が早乙女の盃に酒を注ぎながら催促するが、ふたりはそれぞれまだ煮詰まっていない考えを頭の中で整理してでもいるのか美智子の相手をする気配がない。無視された形になった美智子は、仕方なく諸岡の盃に逆手で酒を注ぎ、フンと機嫌を損ねたフリをしてキッチンの奥に戻ってしまった。ふたりの男はその後ろ姿を目で追ったが、互いにそのことに気づき照れ笑いを浮かべた。

「彼女はいい子だ」
 老人がポツリと呟く。男はゆっくり頷く。

「ああいう子が女房だと人生も楽しいかもしれんな」  老先生は彼女の後ろ姿に視線を戻し、今度はそのままずっと彼女の仕草を追い続けている。その視線が年の離れた新妻に対するもののように感じられ、諸岡はちょっと嫉妬してしまう。
「先生は博学だし、今は趣味の小説とお酒の毎日。別に不幸な人生でもないでしょ?」
 老人の視線を向けさせようと切り出した話題だったが、先生は視線を移さず素っ気なく答える。
「それらと幸福は必然的には繋がらんな。ひょっとすると何も持ち合わせないほうが幸福には近いかもしれん」
「そうですか? 先生に限らず、すべてを持ち合わせた方に言われても、私などはパンがなきゃケーキを食べろと言われたのと同じ気分になるだけです」
 諸岡としては精一杯の皮肉を込めたつもりだが、先生はちっとも気にする様子がない。視線を美智子の臀部あたりに置いたまま諸岡に応えた。
「で? 君は結局どっちを食べるんだ?」
 そう言うと、老人は今度は声を出して笑った。

「なになに? 今度は何か食べ物のお話し?」
 手の空いた美智子がまたふたりの会話に途中で入ってくる。ふたりは顔を見合わせて笑い始めた。美智子はずっと揶揄われたままだが、満更嫌でもない。
「そうだな、みっちゃんは肉か魚か、どっちが好きか当てようじゃないか、と賭けをしてた。なぁ」
 老先生が揶揄い続ける。
「ええ。そうです」
 諸岡が調子を合わせる。
「それで、何を賭けたんですか?」
「それは…… 言えんよ。なぁ」
「ええ、言えません」
「じゃあ、正解は教えません!」
「ああいいよ。なぁ」
「ええ。構わない」
 ふたりがしつこく意地悪を言うから、美智子もだんだん悔しくなってくる。

「ホントはどんなお話なの!」
 彼女は諸岡の盃に冷酒をなみなみと注ぎ、それを自らグイっと飲み干した。そしてその盃を今度は男の手に戻し、やはりなみなみと酒を注ぐ。男はそれを溢さぬよう口を近づけて一口飲み、静かにテーブルの上に置いた。

「どうやら賭けは私の勝ちだ。みっちゃんがどっちの盃で酒を飲むか賭けた」
 老人はにやにや笑いながら酒を飲んでいる。
「あら、いやだ……」
 美智子は先生の答えを真に受けて顔を赤らめ、奥に消えた。

「満更でもなさそうじゃないか」
 老人は再びにやにや笑いながら盃を重ねる。

 諸岡は、誰にも悟られぬようこっそり俯いて頬を緩ませた。




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