早乙女と美智子

 詩音の祖父、早乙女そうとめ 喜平きへいが向かった店は「桔梗」という名の、古民家をそのまま店舗に設えなおした店だった。格子戸を潜り、引き戸の玄関を開けて老人が店先に顔を出すと、暖簾の奥からナチュラルメイクな女性が彼を迎えた。草木染の袖を捲り上げた彼女は美智子という名の雇われ女将で、三十半ばよりもう少し落ち着いた印象を人に与えた。

「あら先生、いらっしゃい」
 澄んだ声に老人は穏やかな笑顔で応え、右手に持ち替えた小さな花束を美智子に差し出した。
「私にはりんどうが似合いだが、みっちゃんの笑顔に合わせてこっちを誂えた」
「私ももうりんどうですよ」
 その言葉に目を細めた老先生は彼女の肩にやんわりと手を回し、ゆっくり上がり框を踏み上がった。

 玄関の正面奥では、コの字型に掘りごたつ風のカウンターがキッチンを囲んでいる。その一番奥に早乙女が腰を下ろすと、美智子はすぐに冷酒と小さなお通しを用意し、盃にそれを注ぎ終えてから花束を薄い白磁の花挿しに活け始めた。

「ガーベラってこんなに沢山の色があるんですね」
 どの花を正面に向けるか思案しながら美智子が老先生に語り掛ける。
「うん。私が適当に何色か選ぶと、あそこのが器用にこんな色合いに組み合わせてくれた。得も言われぬ風情だろ?」
 ピンク、オレンジ、赤がメインの中にバランス良く白や黄色が混じり、配色と配置の妙で、際立つ華やかさの中にも落ち着きがある。
「花屋にお婆さんがいらしたんですか? 私が通るときは、いつも小学生くらいの子が店番してて…… あ〜、そうなんですね。そのお婆さんのお店なんですね」
 彼女の言葉に老先生は含み笑いを堪えながら盃を口に運んでいる。
「なんですか? 先生ったらそんな笑い方すると気になるじゃありませんか」
「いや、別に何でもない」
 それだけ言うと老先生は目もとに笑みを残したまま、手酌でゆっくり盃を重ねた。

 店はまだ仕込みの最中で、美智子は時々先生の様子に目配りするものの、忙しく手元を動かしている。会話もなく静かな時間が流れた。

「花屋さんの裏の空き地はあのままなんですかね?」
 しばらくしてようやく美智子が先生の正面に立ち、酌をしながら話し始めた。
「今日は不思議にその話になる」
 早乙女は孫娘と交わした言葉を思い出し目元を緩ませた。
「あら、そうですか。あそこには確か……」
「映画館。みっちゃんの年頃なら、あそこに行ったこともあるだろ?」
「ええ。と言ってもこっちに越してすぐ閉館になりましたからね。一度か二度、出かけた記憶があるだけです」
 美智子には別れた亭主があることを聞いていた。その記憶を呼び覚ましかねない話題を続ける気は早乙女にはなかったから、話題を他の人物に転じた。

「ところで、彼とはその後どうだね?」
 老先生が穏やかな声で彼女に話しかける。話の人物が誰を指しているか美智子にはすぐにわかったが、仕込み中の大鍋に関心を移し、ええまあ、それなりに、と素っ気なく応えた。
「悪いやつじゃないよ。面白くもないが」
 さり気なく探りを入れる早乙女の言葉に美智子は困ったような笑みを浮かべた。話題の男は学術系書籍専門の出版社で編集者をしている諸岡という人物で、数年前に老先生がこの店に連れてきた男だった。諸岡と美智子とは同世代だったから、すぐに共通する話題を見つけその日のうちに打ち解けたのだが、その後どのような付き合いに転じたか、ふたりの口からこの老人に話したことはない。それを気にした訳でもあるまいが、他に話題のない早乙女はその後のことに拘った。

「その調子だと気に入らぬでもないが、そこまででもない、と言った感じか?」
 この問いかけに、いよいよ彼女は応えるべき言葉を見つけられず、ブリ大根の煮込みを意味なく混ぜたり、準備したお通しの小鉢を数えたりして落ち着きを失くした。
 だが、老人もそれ以上に問い詰めるつもりはないらしく、ふたりの会話はまた途切れ、それっきりになった。

 今年で喜寿を迎える早乙女にしてみれば、美智子は自分の娘よりさらに若く、後でそれとわかった末の娘、くらいのつもりで接している。勿論、その後ろ姿に死んだ妻の面影を重ねることがなかったとは言わないが、ここに通い始めてから気にしているのはひたすら彼女が幸せであるかどうかだけだ。妻を亡くした時の行き違いから、一人娘は口実を作って近寄ろうともしない。孫娘のほかに自分のことを気遣ってくれるのは週に一度通うこの店の美智子と、退官記念出版を手伝ってくれた縁で未だに慕ってくれる編集者の諸岡ふたりだけのように感じられていたから、老人は勝手にふたりの幸せを願うようになっていたのだ。だが、それを直接口に出すほどの野暮でもなければお節介でもない。せいぜい遠くから、ふたりが自然に近づかないかと願うだけだ。

 しばらくすると、店には予約客や常連客が集い始め、かつて客間として使われた座敷の六つの座卓が奥から順に埋まっていった。それに合わせて店のオーナーと下働きの老婆も奥のキッチンに顔を揃え、美智子が忙しく座敷とキッチンを往復し始めると、店の中は雑多な会話と笑い声に包まれた。

 諸岡が現れたのはちょうどその時分だった。




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