平成三十一年四月三十日のこと

 男は女と連れ立って近くのモールに出かけた。十連休三日目のことで、いつもの休日より人通りの少ない朝だった。ふたりは通い慣れたモール内を、目的もなくただ黙って歩いた。

 スーパーの出入り口を通り抜けたところで、男は床に転がった赤ワインのボトルを見つける。濃緑の遮光ボトルでラベルは黒。スペイン産かチリ産の安物にみえる。男はそれを拾い上げると、何気なく陽に翳してみた。それを横目に女は足を止めず先へ進む。男は女の無反応に気づかぬまま、色とりどりのパプリカが並ぶ飾り棚の前で立ち止まり、ボトルを逆さにして振り始めた。
 ボトルはジャリジャリと思わぬ音を立てる。男は小銭でも入っているのだろうかと、今度は少し突き出たコルク栓に手をかけた。
 その様子を見た女は慌てて男のもとに駆け戻り、ディスプレイのボトルが開くわけないでしょ、もう行くよと先を急かす。男もそうだよな、と応えたものの、試しにギュッと力を込めてコルクを撚ると、キュっと音を立てて呆気なく栓が抜けた。
 中を覗くと小銭と思った音の正体は数多のガラス玉で、さらに揺すると奥からスマホの一部が顔を覗かせる。男は意外な発見をしたとでも言いたげに、ほらスマホ、と女がいた場所に顔を向けるが、そこに女の姿は既にない。一瞬、ひとり取り残されてバツの悪そうな男だったが、直ぐにまあいいやとでも言いたげに、再びスマホに関心を戻した。

 それはいかにも古い市松模様のスマホだった。男はまだ使えるのだろうかと、今度は耳元でスマホを振ってみる。が、わかるはずもない。結局、モール内の携帯ショップで確かめようとその方角に歩き出した。

 レジ前にはそれぞれに人垣ができている。それを縫ってベーカリーの角まで進んだところで、男は濃紺のタイトな装いの女に気づき、思わずその手前で足を止めた。
 かつては見慣れたはずの面影を残す横顔だった。ただ、今は男の記憶にない赤く細いメガネフレームを鼻に乗せている。男はなぜか、そうなんだと時の流れをその色で合点した。
 化粧っ気のない目元に感情は読み取り難いが、きめの細やかな白い肌は昔のままだ。以前より少し太ったようで、幾分柔らかな印象を受けた。男は女が放つ淡い皮脂の香りをまだ嗅ぎ分けられそうな気がした。

 男は思わず、あぁー、と女に向けて小さく声を漏らしていた。話しかけても顔を背ける女・・ そんな記憶が最後に残ったはずの女だが、意外にも今は男の言葉に微かに反応し笑ったように見える。そして、一、二歩前に進み出ると、あぁ、って何さ、と今度は本当に笑った。
 男は急に緊張し、脇から汗が一筋流れ落ちるのを感じた。今になってこの女とこうした会話が成り立つ不思議に囚われたのだが、考えてみるとこれが普通の男女かも知れない。だから、ここで驚いたり素っ気ないのも変だと思い、スマホがね、と手にした市松模様を女に差し出した。

 スマホ? 汚いね、それ
 だって、拾ったやつだし
 色違い?
 うん、色違い

 会話はそこで途切れた。ひと言だけ共有した過去の残像は瞬く間に消え去った。男は継ぐべき言葉を見つけられず足元に視線を落としたが、やがて顔を上げると、再び携帯ショップを目指して歩き出した。すると、昔の女も並んで歩き出す。男はそれが当たり前の日常だった頃を思い出し、女の側の半身が少しこそばゆくなるのを感じた。だがふと、いやいや今は違うだろ? と現実に戻り、慌てて周囲を見廻した。一緒に来た女がどこかで見ている気がしたのだ。
 その様子に、女はふーん、と鼻を鳴らす。実際には何も言わないし、かつてのように不機嫌な顔をするでもないのだが、男は勝手にそんな感じを抱いた。
 実際の女は、昔のように腕を取って歩き出すでもなく、男との間にできた微妙な空間を縮めもしなかった。男は女との間に開いたその距離に物足りなさを感じたが、同時にホッと胸を撫で下ろしもした。

 そのまま、男と女は海岸沿いの道を歩いた。高いヤシの木が道の両側に規則正しく並んでいる。いつかふたりで並んで歩いた時のことを男は思い出していた。
 ローカル線の終着駅を背に、西に傾いた陽を正面に受けて歩いた。向うから長いシルエットを伸ばした一台のスポーツカーが走って来る。男は助手席の女に一瞬目移りしたが、横を歩く女はただそれを笑って見逃した・・ そんなこと。
 男は女の言葉を待った。女は少しの笑みを湛えたまま、今も黙って歩いた。

 海岸は小さなテラスを越えるとその先には何もない。男はこのまま道の先まで歩いたものだろうかと思案したが、立ち止まるのも、テラスに腰を下ろすのも、引き返すのも違う気がして、そのまま先に進んだ。
 ああそうだ、スマホ・・
 男はふと思い立って、女の連絡先を訊こうとした。だが、口に出せぬまま、女の半歩前を歩き続ける。
 やっぱり訊いておこう、何かあると困るし。そう意を決し後ろを振り向いたのだが・・・

 そこには見慣れた海岸沿いの遊歩道がただ続いていた。白いドレスの幼子がひとり、波打ち際を覚束ない足取りで遠ざかって行く。その姿を男はしばらく見送った。

 懐かしく名残り惜しい気もするが、所詮、今の日常ではない。そう思うと、すぅーっと胸のざわつきが収まった。

 ・・・という夢から目覚めた。
 なんだろう? そう思う間もなく、男はもう一度微睡んだ。

 夢の続きはやって来ぬまま、静かに休日の朝が明けた。




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