見覚えのある女

 濃紺のスーツに身を固めた若い男がひとり、古いアーケード街の入り口でバスを待っている。両手には紙袋、小脇にビジネスバッグを挟んでいかにも手一杯という感じの、駆け出しのサラリーマン風情だ。
 そこに重い雲間からポツリポツリと雨が降り出した。若い男は恨めしげに天を仰ぎ見る。かつて繊維業で栄えた町のメイン通りには、日中にもかかわらず行き交うタクシーもない。男は諦めてアーケードに一歩下がって雨を避けた。
 その時、路面の滴を切り裂いて銀色のアウディが走り寄り、男の道路向かいに止まった。やがて助手席のスモークガラスがゆっくり下がると、男の記憶に淡く残る肌の浅黒い女が男に向かって手招きをした。

 この女とは確かにどこかで会っている。だがそれはこの田舎町のバス待ちで隣り合わせたか、それともただの通りすがりか、どちらにしても、女は男にとって、ただ見覚えのある女、でしかなかったから、その女が自分に声をかけているなど予想だにできず、自分の背中越しの誰かに声をかけているのだろう、そう思って後ろを振り返った。

 ところが、女は明らかに男に向かって声をかけている。「ねえ」と発したそのひと声は、タバコで潰したような低く嗄れた声で、それがあまりにも女に似つかわしく予想した通りの声だったから、男は思わず笑ってしまった。笑った後で慌てて口元を隠そうとするが、都合の悪いことに両手は塞がったままだ。若い男は不躾な笑いを女に向けることになったが、女はそれを気にするでもなく、無表情なまま早くしなと無言で手招きを繰り返した。

 若い男が腑に落ちぬまま車に近寄ると、女は細身の身体を伸ばして内側から助手席のドアを開け、そこらに散らばった茶封筒やら書類やらを無造作に後部座席に投げやった。男はただ、どうも、とひと言だけ告げて車に乗り込む。車内は男の予想に反して、清潔な鉋屑かんなくずの香りがした。

 男はまだ世慣れていなかった。こんな時どんな話をしたものか知らない。何か共通する話題を見つけ出そうと狭い範囲で首を回すが何も見当たらない。かと言って、何処かでお会いしましたか? などと問いかけるのが此の場面に相応しくないことくらいは知っている。仕方なく、生憎の天気ですね、このまま雨になるんですかね、傘を持ってないから助かりましたと、当たり障りのない言葉を口にした。だが、女はそれに愛想笑いで応えることもなかった。

 車はバス通りを走っている。このまま五分も走れば在来線の駅に着く。若い男もそれからは無言を選んだ。

 いくつかの信号を超え、バイパスを横切り、車は駅方面に向けて真っ直ぐ進んだ。女は男に関心を寄せることなく、ただ真正面を向いて運転を続けている。男が横顔を盗み見ると、毛先の痛んだ長い髪の隙間から、浅黒く日焼けした右の頬が見え隠れする。だが、目元の表情まで覗き込む気にはなれず、女の意思も目的も見い出しようがない。

 若い男は女の正体を考えた。どこで会ったっけ? 確かに会っている。会ってはいるがどこの誰かまるで思い出せない。まだ赴任したばかりのこの田舎町で、気安く自分を誘うような女に心当たりもない。自分に近寄ってきそうな女は…… そこまで考えて誰も思い浮かばない。その頃になってようやく男は車に乗り込んだことを後悔し始めた。

 やがて車は新幹線のガード下を潜り抜け、在来線の鄙びた駅に着いた。若い男は思わずふぅと息を漏らす。思った以上に大きく響いたため息に、男は一瞬気まずさを覚えるが、女は顔色一つ変えるでもない。ただ、静かにサイドブレーキを踏みエンジンを止めると、今度は女がふぅと深いため息をついた。だが、ハンドルから手を放すこともなく、ずっと無言で正面を見据えている。男に降りろと催促する様子もない。
 男はこの場をどう切り抜けるべきか解らず、時間を確認するフリをして、ただ、ありがとうございました、助かりました、おかげで電車に間に合いそうだ、そう礼を述べた。女はそれに、うん、と短く応えた。

 駅前の小さなロータリーには客待ちの小型タクシーが一台だけ止まっている。他に人影はない。時が止まったような場所で、男と女の間の妙な息遣いだけが僅かに残った。

 じゃあ、どうも…

 男はこの見覚えのある女が誰なのかわからぬまま車を降りようとドアノブに手を伸ばした。
 その時、女が男を一瞬だけ見据えて小さく嗤ったように見えた。そして、後部座席に放り投げた茶封筒のひとつを取り上げると、ほらこれ、と無造作に手渡した。男は何の書類か皆目見当がつかなかったが、そこに見覚えのある、この田舎町では名の通った会社の名前を見つけると、あぁ、と納得してそれを受け取った。女とその社名はうまく繋がらないが、きっとどこかで会っているのだろう、男は女の持つ不思議な影からようやく逃れた気がした。

 じゃあ、これお礼に。つまらないものですよ。
 男はそう言って最近会社が作ったキャラクターのぬいぐるみを紙袋からひとつ取り出して助手席に置いた。女は無表情に、ああ、とだけ呟いて、エンジンをかけると、そのまま車をもと来た方向に走らせた。

 ああ? 不愛想な女だ。男はそう感じながら車のテールランプを見送る。手元には薄い茶封筒が残った。中身を確認すると・・

 一憶八千万円

 見慣れた書式に見慣れぬ額が書き込まれていた。
 あぁ、そうか…… 男は書類から顔を上げ、走り去るアウディを目で追った。そして、女の浅黒い肌と傷んだ毛先を思い返し、この紙切れに記された金額に繋がる、ある光景を思い出していた。
 あの時の女…… 男は女に射すくめられた一瞬の視線を思い返す。その強い視線と焼けた古い機械類の匂いが蘇った。

 男は書類を茶封筒に戻し、無造作にバッグに詰め込んだ。
 紙袋から子供が喜びそうな笑顔を振りまくキャラクターグッズが男の顔を見上げていた。




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