
生涯、ここに住みたい、そう思わせた町は二箇所しかない。ひとつは秋月でもうひとつは出石。ただ、出石の滞在はほんの一度きりでしかも数時間。住みたいと思った理由も、どことなく秋月に似てるかも、そう思っただけだから、ボクにとって住みたい町は秋月一箇所と言っていいかもしれない。この願望は20代前半の頃から変わっていない。
何度か訪ねた中でも印象深いのは麦秋のこの時期のことで、甘木から向かうローカル線の車窓からも、バイクで出かけた道路沿いの光景のいずれも夕暮れ時の黄金がどこまでも続くもので、未だに脳裏に深く刻まれたままだ。ただ、最後に訪れてから随分時間も経ってしまったから、今の景色がどうなのか心許ないのだけれども。
町は古い城跡のある、いや、城跡しかないところで他に何もない。忘れ去られた往時の石段は苔色に沈み、あざとい装飾も、観光客に媚びた造作のひとつもない。苔色が似合う町だから雨上がりに風情が増す。
この町の何処か片隅で二階の木枠に腰を掛け、風鈴がちりんと鳴るのを聞いていると、やがて下駄をカランと鳴らして彼女がやってくる、そんな光景をよく夢想した。
いる〜? 浴衣姿の彼女は窓の外から無邪気な声で呼びかける。遅れ髪を結い上げた襟足は女の色香には至らないが、透けるような肌が夕暮れ時の柔らかい光に映えている。書生のボクはそんな彼女を妹のように可愛がっている。
書生だから日がな一日ぼんやり書籍を捲る生活で部屋には座卓以外何もない。ただ一輪挿しがあるばかりだが、そこには野の花が日毎取り替えられる。この家の大家の心遣いだが、その大家というのがまだ40手前の美人で、彼女は三味線の師匠でもある。いつもキリッとした和装なのだが、今は階段下で彼女を呼び止め、何やら話し込んでいるようだ。時々ふたりの笑い声が聞こえてくるのを聞きながら、ボクは雨上がりの石段をなんとなく眺めている……
ってな生活に未だ憧れているんだから、何十年経っても数ミリも成長してないんだな(^_^;)
※写真は散歩道の途中の景色。秋月でも出石でもないのが残念だが、この景色を見るたび、秋月のことを思い出す。