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2019.06.12

次に出遭ったのは齢90前後と思しき老爺だった。日陰のガードレールに凭れ、杖を支えに崖下の水田を眺めている。その前を通り過ぎようとするボクに、老爺はにこやかに話し掛けてきた。

ボクは散歩の間中音楽を聴いていてイヤホンを装着したままだ。だから、声をかけられても何を言われたかまではわからない。初対面の老爺だし、多分ただの挨拶だろう。そう断じたボクは、こんにちは、暑くなりそうですね、と声を出して応じた。

言っておくがこれはボクにすればスペシャルな応対だ。通常なら、ちょっと首をすくめるだけで挨拶したつもりになるところ、この老爺の佇まいがなにか特別な印象を与えたから、思わず社交辞令のひとつでも言っておこうという気になったのだ。

だが、立ち止まるほどお人よしでもないボクはそのまま通り過ぎる。通り過ぎながら、老爺が佇んでいた場所を思い返してみた。

そうだ。そこは数か月前まで、古い家屋が朽ちるままに捨て置かれた場所だ。赤いトタン屋根が目立つ家だったから印象に残っている。最近ようやく解体され、跡地にわずかな雑草がペンペンと生え出した場所だ。その家屋がなくなり視界が急に開けて見晴らしが良くなった。かつてここに住んだ人は、この景色をずっと眺めてきたんだろうな、そう思った記憶が蘇った。

その場所に佇む90歳前後の老爺…… きっと老爺は、崖下で田植えが行われる時期に合わせこの風景を確かめに来た、あの赤いトタン屋根の住民なのだろう。水田では一台の田植え機がエンジン音を響かせており、その行きつ戻りつする様子を飽くことなく眺め続けている。

ふと、この老爺の身の上を思う。この光景を彼はこれまで何度眺めてきたのだろう。そしてあと何回、この光景を眺めることができるだろう。ついでに、ボクはこの場所のこの光景をあと何回見ることができるだろう、老爺と同じ年齢になる頃、ここでは今と同じ光景が繰り返されているのだろうか、そんなことを思った。

気になって振り返ると老爺は同じ姿勢のままずっと崖下を眺めている。よく見ると、ループタイをきちんと締めて身なりを整え、痩せ衰えたとは言え、しっかりした様子に見えた。今はここではない場所で、ここにいた当時とは異なる生活ぶりなのだろう。

老爺の脳裏には何が去来しているのか、訊いてみたい気もした。

田植えの時期にはふさわしい雨雲が広がっている。でも、雨は結局降らなかったのだけど。