2019.06.14
昨日と一昨日、このあたりのローカルテレビは車のボンネットに紛れ込んだ子猫の顛末をニュース冒頭で流した。善良そうなおばさんが、子猫がここに閉じ込められていると車を指差し、アナウンサーはそこにマイクを寄せて鳴き声を拾う。近寄ってきた黒白の猫を事態の推移を見守る親猫として紹介し、その横顔をアップで映し出した。車の持ち主はいつまでも現れず、視聴者は成り行きを心配する。万一にも子猫に気づかぬままエンジンを始動させないようにと、注意喚起の張り紙がペタペタ貼られ、一昨日は、一刻も早い子猫の無事な救出が待たれます! と深刻なコメントで締め括くられた。
そして昨日、子猫、12時間ぶりに無事脱出!と銘打ち、ニュースは2日続きで大々的に報道。ところが、子猫は車の隙間から自力で這い出し、身体の色は茶色。親猫と言われた黒白とは似ても似つかぬ姿をひょっこり見せた。報道の過熱と子猫の素知らぬ顔…… 穿った見方だが、大騒ぎする人間に子猫は恐れをなして出てこられなかっただけ? と感じてしまった。
自分のいる場所は、連日連夜悲惨な出来事ばかり報道されるこの国とは別のユートピアなんだろうか? 子猫報道はどこかの小学校で学級新聞の豆記者たちが日常の些細を取り上げるノリのようで、プロのジャーナリズムとはとても言えない。キー局から流れてくる悲惨なニュースと学級新聞的なノリ…… この国のバランスの悪さをここでも目の当たりにする。
片方に野良猫の命に懸命になる人がいて、他方で自分の子を見捨てる親があり、それを所詮他人事と見過ごす木っ端役人がいる。献花台に殺到する人々と90近い老人を加害者だと追い回し、晒せ吊るせと大騒ぎする。そしてボクを含めた大多数は、その様子を食卓で談笑しながら眺める悪趣味に気づかない。
善良と悪徳は常に隣り合わせだが、顧みられず失われた命とこの野良猫の命、被害への同情と加害への憎悪、これらの両極端が次々現れて正常なバランス感覚を失いそうになる。
野良猫の救出劇は、人々のすべてが幸福で、誰もがその救出を固唾を呑んで見守ることのできる社会なんだよ、と教える小学校で流されるなら理解もできるが、片方にあまりに理不尽に扱われる人があるとき、同時にこれを見せられると、人の善意はより深刻な事態への無知無関心、不感症を想起させて居た堪れない。自分は違う場所にいる、あぁ今日も幸せな一日だった…… それでいいのだろうか?
ローカルには扱うべきニュースもない?
そんなことはないと思うけどなぁ。