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2019.07.02

以前、カビラさんの番組でこの曲が流れてきた時、これ、誰だろ? と気になった。聞き流していただけだから、最初は日本人のシンガーの誰かだろうと勝手に思っていた。
少し耳をそばだてて聞き始めて、あれ? これK-Pop? と気づく。率直な感想として、もはやJ-PopだのK-Popだの、区別しても意味ねーな、だって同じじゃん(笑)

海があるとはいえ、ごく僅かな距離を隔てただけでこうも違う言葉、発音を持つ不思議、その反対に、顔かたち、雰囲気がこうも似かよる不思議、そして、近親憎悪に近い反目が互いに抜けない不思議、ここからなら東京よりはるかに近い場所なのに、遠い異国と区別する不思議、そんな様々な不思議を改めて感じた。

とても理解できない隣人なんてものはどこにでもいるものだ。国内にもわんさか存在する不思議な隣人のひとり、くらいに思えば、隣国とのあれこれも、どーってことないんじゃないかと思うんだけどね。トランプの真似をしてどう考えても意地悪でしかないことをするってのは、日本人の美徳に反する気がするんだけど。

そんなことより、その隣人にカワイイ娘がいないかな~、と隣人の家を覗き見するほうがよっぽど健全な気もするんだけど。ボクはそーするけどね(笑)


落ち着きの悪い言葉に「あなたは優しいね」というのがある。この言葉を投げかけられると、……な気持ちになる。自分は決して優しくないことを自覚しているし、もちろん、弱い者の味方でありたいとか、小さく無力な者には手を差し伸べてチカラになりたいと思うことはあっても、すぐ横にいる人が弱っていても、なんだよ、もっと頑張れよ、なに弱気吐いてるんだとムカつくことだってあるし、そんな気分の方が多い気がするから、ボクは自分自身で優しい人間だとはちっとも思っておらず、そこを美点として挙げられると、あ~ぁ、こいつもちっともわかってねーや、とがっかりして、優しさとは正反対の行動をとってみたりする。

「優しい」というのは、誰かに対して「優しくありたい」と願うことだけでなく、相手のことを自分のことに置き換えて実感できることだと思うが、そんなこと実際に可能なんだろうか? 相手のことをどんなに想像してみても、それはあくまで想像でしかなく、本当の相手のことなどちっともわかってないのだ、きっと。

「優しい人」のはずが「怖い人」に変わっていくとき、多くは「こんなはずじゃなかった」とか「この人はそんな人じゃなかった」「こんな人とわかっていれば付き合ったりしない」という捨て台詞を何度も聴いたが、おいおい、それってのはそもそも人を見る目があなたに備わっていないことを自白しているだけで、そいつが「いつまでもどんな時でも優しくすると思ったの?」と訊いてみたい気になる。
それは大抵自分に都合よく相手のことを眺めて出した結論に過ぎず、その人間をしっかり観察した結果であることなどほとんどない。世の中にマザーテレサのような人はそんなに多くない。

結局、ボクたちは幸せな錯覚の中にいるに過ぎない。その錯覚に気づいた時、ボクたちはスゴスゴとその場から立ち去るべきなんだろうか? それとも錯覚と知りつつ、その錯覚に騙されながら生きるべきなんだろうか?

自分のことなら結論はハッキリしているんだけどな。