瀬戸内の海の見える丘

 海岸線の景色はすっかり変わってしまった。祖父母にだけは溢れるほど愛情を注がれたけど、故郷ふるさとの記憶は私には辛く悲しいことばかり。だから、いつもなら出歩いたりすることもないのに、今日はムーちゃんに私のことをもっと教えたくて、カメラ片手に町を歩いている。秋には毎年大きなお祭りがあって、そこからなら瀬戸内の海が見晴らせる古い神社の境内に来ている。歩きながら心の中でムーちゃんに話しかける。いつものように……

 ムーちゃんにならなんでも話せた。子供の頃の嫌な思い出のことだけでなく、高校、大学時代のこと、社会人になり、就職した会社に入ってから感じた様々な葛藤のこと、ムーちゃんに出会うまでは、あの恋がトラウマだと思い込んでた失恋のこと。そして、自分自身を見失いかけたとき、スピリチュアルの世界観が私を救ってくれたことも、なぜか自然に話せた。受け入れられるはず、そう思った。事実、ムーちゃんはいつまでも話を聞いてくれた。私自身が何を話しているのかわからなくなっても、いいよ続けて、っていつも言ってくれた。

「大好きだよ、ムーちゃん」

 私は何度も何度もそう書いて送った。一度も嘘なんかついてない。大好きなだけじゃなく、大切なの。私の大切な人。大切な人だから、ムーちゃんにも幸せになって欲しい、ムーちゃんのためになら何でもできる。そう思った。嘘じゃない。

 なのに、会いたいって何度私が言っても絶対に会おうとしないムーちゃん…… 会えないのは何か事情があるから、ってことくらいわかる。ひょっとして、ムーちゃんは今、誰かと抱き合ってる? 奥さんと? 本当は別居なんて嘘? そんな事が頭を過ることがなかったわけじゃない。でもムーちゃんは私には絶対的な存在だったから、言えない事情も疑わずに信じることにした。

 覚えてる? 私がインフルエンザで寝込んだときのこと。

 ムーちゃんは二時間おきに長いメッセージを送ってくれた。高い熱があって意識もぼんやりしてるのに、ムーちゃんからのメッセージが届くと読まずにいられない。そこには、私がこれまで一度も経験したことのない愛が溢れていて、それを目にするだけで幸せだった。

 穏やかな愛情に包まれていたい、この先いつまでも。その気持ちはあれからずっと変わらないままなんだよ。

 あの週末、単身赴任先から主人が戻ってきてた。優しい人だから、何も言わず看病してくれた。家のことを全部やってくれて、食事を用意しベッドまで運んでくれる。時々シーツを換えてくれて、汗だくになったパジャマや下着を洗濯してくれたのも彼。

 でもね、あの時ですら私はムーちゃんの事しか考えていなかった。届いたメッセージの内容を反芻し、今度はどんな言葉が届くのだろう…… それだけをずっと心待ちにしていた。目の前の人には申し訳ないけれど、申し訳ないって考える余裕もないくらい、ムーちゃんのことを思うの。

 相変わらずムーちゃんのことは何も知らない。顔も知らない。声も知らない。ムーちゃんの言葉が本当なのか嘘なのかも知らない。
 だけどそんなこと関係なかった。スマホの画面の向こうには、間違いなく私が思い描いているムーちゃんがいる、そう信じられるの。

 なぜなの……? 私を騙してる? 私は変なの? 

 そんな質問をしたこともあったね。でも、必ずムーちゃんは私の不安を取り除いてくれた。考えるいとまがないくらい、すぐに返信をくれる。私を騙すつもりなら、もうとっくに何か要求してるよ、会いたいって言ってるよ、って返信してくれる。ムーちゃんから何ひとつ要求されずむしろ寂しかったくらいだから、私はもっと何かを求めて欲しいとすら思った。私はムーちゃんに全てを投げ出す気でいたんだから。

 そんなムーちゃんが、私の声が聞きたい。音声ファイルにして送って、そう言った事があったね。
 私はね、なんでそんな面倒なこと考えるんだろ? って思ったわ。電話すればいいのに、って。電話番号聞かれたら答えるつもりだった。ラインLINEだってある。ネット回線を使えば、一日中話していたって何の負担もない。ムーちゃんは知らないのかな? って思ったくらいだよ。

 あ〜、こうやって思い出すと楽しいことばかり。ホントは苦しくて、切なくて、見えない将来のことを思うと、私たちは死ぬことでしか一緒になれないの? などと思い詰めてたはずなのに……

 そう。ムーちゃんは知らない。私が本当に死を意識していたことを。食事も喉を通らず、仕事にも行けず、ベッドから起き上がることすら出来なくなったことを。

 ムーちゃんには受け入れられてないのかも、と思うのは辛かった。会えないと言われたのは本当にショックだった。新幹線の中で見た夢は本当のこと。本当に新幹線に乗ったのよ。

 でもね、名古屋より先には進めなかった。主人のところへも行けず、ムーちゃんに会いに行くこともできない……

 その時に初めて主人に後ろめたい気持ちが湧いた。名古屋駅に降り立ったときに初めて感じたの。


 私にとって現実世界は何なの?


 私はムーちゃんと結ばれるために死を覚悟できているか自分に確かめてみた。

 でも、死ねない。

 そう思った。そう思った自分が悔しくて涙が出てきた。

 ムーちゃん…… なぜ会ってくれなかったの? 私はムーちゃんに抱かれるなら、一度だけでいい、それで捨てられてもいいとまで思ったのよ。一度抱かれたら、その先どんな結果が待っててもいいと覚悟を決めていたのよ。

 だけど、ムーちゃんには届かない。ムーちゃんはムーちゃんで苦しんだのかもしれない。だけど、踏み出さなきゃ何も始まらない。
 恋には落ちたわ。でも、いつまでも落ち続けることなんてできない。どんな恋にも行き着く先が何処かにある。終わりがある。そこが新たな出発点なのか、本当の終着点なのかはわからない。だけど、どこにも辿り着かず漂うだけなんて辛すぎる。
 そしてそのことは、きっと私よりムーちゃんの方がずっと先に意識してたはずだよ?

 だって、ムーちゃんの態度は少しずつ変わっていったから。私を不安にさせる言葉を投げつけるようになったから。

 あれだけ愛に溢れてた言葉の中に、絶望を感じるようになったから。


……


 古い品を探していたら、子供の頃に縁日で買ってもらったブローチが出てきた。綺麗な化粧箱にきちんと保管してあって、くすんでいた金具も少し磨くと再び輝きだした。

 その写真にコメントをつけてブログにアップした。

「子供の頃の愛された記憶。その記憶を愛する人に伝えられることが幸せ」

 本当にそんな気持ちなのよ。ムーちゃんの中でどんな変化があったとしても、私は変わらない。だって、あなただけが好き、あなただけを愛している、あなただけが大切、そう言ったから。何度も何度も、私はあなたにそう言ってきたから。




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