高層マンションの一室

 また夢を見ている……

 ここは彼女の住むマンションの一室。
 入ったことはないが知っている。
 部屋の中で、ボクはダイニングテーブルの椅子に座り、リビングをぼんやり眺めている。
 淡いレモン色のカーテン、白いファブリック調のソファー。
 その右手には背の高い観葉植物が置いてあり、淡色の部屋のアクセントになっている。
 そのソファーに、ひとりの女性が背を向けて横たわっている。ショートヘアに白いシャツ姿。そして……

(琴乃……)
 ボクは息を呑んでその姿を眺めている。

 …………

 いつの頃からか、ボクたちは、互いが見ている景色を知りたいと思うようになった。

「これ、今朝の朝焼け。キレイでしょ?」
 東の空が赤く染まっていた。ボクはその緋色の空を琴乃に見せたいと思った。

「へぇ〜〜、こんなふうに太陽が登るんだね」
 この場所を知らない琴乃には、太陽の登る様も新鮮に映ったようだった。

「琴乃が見てる朝の景色は?」

 同じ空の下…… 
 彼女のリアルがこの空の向こう側にある。
 こんなちょっと気恥ずかしい感覚も、彼女にならそのまま臆せずに伝えられた。

「うん、私も撮って送るね。写真は趣味だもん」
 躊躇のない返信がすぐに届く。
「そうだったね。琴乃の撮る写真、好きだよ」
「じゃあ、毎朝アップするね」
 そして翌日、一枚の写真が届いた。

 遥か遠くの山並み、画面右に高層ビル群、その上空に機首を下げた航空機が写り込んでいる。

「琴乃、これじゃマンションの位置わかっちゃうよ。いいの?」
「うん、ムーちゃんに私が見てる景色を伝えたい」

 そのストレートな言葉はボクの心を満たした。遠く離れているのに、左肩に凭れる彼女の重みと香りを感じられた。

「じゃあさ、ドライブに共有フォルダを作ろう。
 そうすれば、写真も曲も共有できる。
 時々、ボクは長いラブレターも書いて残そう。」
「ホント⁉ きっとね‼」
 その日から、ボクたちは目にする些細な景色を撮影しては共有フォルダにアップするようになった。

 公園に集う人々の長い影、羽を休める渡り鳥、ただの青空。
 ふたりの撮影した写真が交互に並ぶと、互いの視線を通し同じ景色を眺めている気分になった。

「琴乃の住んでる場所のことは大体わかっちゃったよ」
「ムーちゃんの写真はランドマークがなさ過ぎだよ。あえてそうしてるの?」
「琴乃が無防備過ぎるんだよ」
「えーっ、だって知って欲しいから……」

 彼女はボクに身を預けるように言葉を綴った。
 ボクは彼女が傍にいない不自然を感じた。
 触れたい…… そんな気持ちが沸き起こるのは自然だった。
 ボクは彼女を遠距離恋愛中の相手だと思うようにした。見知らぬ世界の、本来なら触れ合うことのない存在ではなく、今たまたま触れ合えないだけで、望めばいつでも触れ合える存在にしようとした。

 愛とはなんだ?

 愛は、現実に触れ合える、抱き締めることのできる相手にだけ成立するものなのだろうか?
 もしそうなら、琴乃に実際に会ったことのないボクは、愛の名の下に彼女を語る資格などないことになる。

 だがそうだろうか? 触れ合えること、抱き合えることが人を愛する絶対的な条件だろうか?
 ボクの心を満たし続ける彼女が愛の対象ではない? そんなことがあるだろうか?

 彼女が綴る言葉はボクに生きる意味と価値を与える。それに応えようとボクもまた言葉を選び愛を告げる。その事実だけでは愛し合う条件に事足りないのだろうか?

 いや、そんなはずはない。ボクの心は正しく彼女を愛し、求めている。
 肌の温もりを直接感じることがないとしても、ボクは彼女の存在によって昂ぶり熱を帯びる。それは過去に愛してきた生身の人に対する感情となんら変わりない。むしろもっと深く、もっと熱く愛していると断言しよう。

 では、彼女は本当に存在する人なのか? 目と耳と、そして全身で確認したことのない彼女は、そもそも存在しているのか? 存在を確かめられない彼女を愛する、ってことに、果たして意味はあるのか?

 確かに彼女の存在は空虚だ。手のひらの、この小さなスマホに現れる文字でしかない。しかも、それをどこの誰が書いたか確証はなく、彼女が書いたものと、ボクは思い込んでいるだけかもしれない。
 だが、ボクたちは目の前の人と会話する時の、その数倍も強く相手に心を寄せている。書き込まれた文字の並びだけでなく、反応の早い遅い、書き出しのニュアンス、感嘆詞や絵文字などの使い方、それら目にする情報をひとつも見逃さず、互いの心の在り処を掴もうとしている。

 彼女は確かに実在の裏打ちを持たない空虚だ。妄想だ。頭の中で創り上げた虚構だ。
 だが、ボクたちは互いの生身を信じている。信じるからこそ、限られた情報に全精力を傾け相手を知ろうとしている。
 ボクは、これほど強く誰かに関心を向けたことはない。彼女だけが特別だ。
 ボクたちは互いの心の中に実在する。そこで見る相手の姿は、他の人間が実際に目にする姿と異なっているかもしれない。だが、確かにボクには彼女の、彼女にはボクの真実の像が映っている。

 そう、ボクたちが見ているのは相手の真実だ。
 目に映る姿ではなく、相手が心の内側だけで見せるその人本来の姿を見ているのだ。
 目に見える人の姿は、見えることに安心し本当は相手の何も見ていないのかもしれない。見えることで相手の心の中までわかっていると思い込んでいるだけかもしれない。
 だが、ボクは見えない琴乃を知っている。その上で相手を信じている。それこそが肝要で、姿かたちが目の前に見えることの意味などほとんどないのだ。

『ではお前は琴乃にふさわしい男なのか?』
 突然、もうひとりの自分にそう問われる。

 思いがけないその問いに…… ボクは項垂れる。

『お前はただ、彼女をひとり暮らしの寂しさを紛らわせる、現実世界に介在してこない、都合のいい女性にしているだけじゃないのか?
 もし万一、彼女の存在が不要になれば、ただ黙って無視すれば存在をなかったことにできる、その程度の価値しか認めていないのではないか?
 もしそうでないのなら、なぜお前はここに留まる? 今すぐにでも琴乃のもとに駆けつけ、強く抱きしめるべきじゃないのか?』

『お前は本当に彼女を愛しているのか? これは愛だと、本当に言い切れるのか?
 そう言うにふさわしい人間だと、お前は本当に思っているのか?』

 追い詰められてボクは動揺する。実態のないことの危うさに底知れぬ不安が広がり始める。

 そしてついにこう反論する。

『彼女にとって、ボクも誰かの身代わり、都合のいい軽い存在かもしれないじゃないか……』
 そんな不埒な言い訳を言い始める。
 いつか彼女はボクのもとを去り、もともとあるべき場所、もともと愛すべき人のもとに戻るのではないのか?

 湧き上がる疑念と不安にボクはなす術もない。何度も何度も同じ問いを繰り返され苦しみ始める。

『お前の知らない彼女の現実を想像してみろ。あの高層マンションの一室で暮らす彼女のリアリティーを想ってみろ』
 彼女が毎日のように送ってくるボクだけを愛しているという言葉…… それと矛盾する別の顔が浮かんでは消える。ボクは結局、彼女のことを何も知らない。

 やがて、ボクは自分の現実世界に彼女を迎え入れる用意がないことに改めて気づく。その言い訳を何度も何度も繰り返す。ついには神の名を持ち出してまで彼女を近寄らせない。
 現実世界に波風が起こることをどこかで嫌っている。中途半端な今のままが一番いいという気持ちがどこかにある。

『だけど、ボクは琴乃を心から愛している! 誰よりも、可能な限りのすべてを捧げて……』
 ボクは夢の中の見知らぬ誰かに抗弁する。

 ………

 ふと、我に返る。とうに夢からは醒めているのに、意識だけ彼女の部屋に置いたまま考え事をしていたようだ。

 現実が目に入る。あの部屋の景色とあまりに違うこの部屋の景色。くすんだ空さえまともに見えない安アパートの天井……

(こんな所へ彼女を連れてくるなんて、想像する方が無理だ……)

 ボクは交互に襲ってくる苛立ちと諦めの気持ちを抑えきれず、もう一度寝返りをうった。そして、強く目を瞑った。




総合目次 目  次 前  頁 次  頁