悪友

(結局、あれが初デートか……)

 隣で眠る彼女の顔をぼんやり眺めた。

(痩せた?)

 少し頬がこけた気がする。だがまだ二十代半ばの彼女が、数年でその容姿に劇的な変化を許す筈もなく、髪型こそ変わってしまっているものの、相変わらず美人でカッコいい。むしろ、もっと洗練されたかもしれない。

(それはそうなんだけど…… )

 ここ一、二年、ボクたちは決してうまくはいってない。特に、周囲が思っているような関係ではない。あの写真のおかげかどうかは知らないが、周囲の目にはなにひとつ行き違いのない、今どきの、物事に拘泥しない軽やかなカップル、そう見えているようだが、実態は少し違っていた。

(まぁ、結婚四年目だし、少しくらいすれ違うのが当たり前か…… )

 決して苦々しい思いをしているわけではない。幸せかどうかは知らないが、不幸せではない。ただ、彼女といて、おや? と感じる瞬間は意外に多い。


 彼女はとても社交的だった。そのあたりはボクと全く違う。ボクは人見知りで、彼女は誰にもフランクだ。それは初めて会った時から変わらない。
 だから、本社で行われる行事は公式非公式問わず、必ずと言っていいほど顔を出した。会社もとてもアットホームな雰囲気だから、今は退職している彼女なのに、まるで現役の社員のように受け入れている雰囲気すらあった。

 彼女が工場で所属してたのは品質管理部。工場へ出張に出向いた多くの社員が必ず立ち寄るような部署だったので、本社内にも顔なじみが多い。彼女の気分としては、ボクと同時に本社に転勤した、そんな感じだったのかもしれない。

 そんな彼女だから、いつのまにか本社の女性社員たちとも仲良くなっていて、時々飲みに出かけることもあったようだ。しばらくそのことを秘密にされていたから、ボクはなんでそんなこと知ってるんだろう、いつ話したっけ? みたいなことにも何度か遭遇した。


「あなたがそんなには嫌われていないとわかって安心したわよ」

 彼女はそういう言い方をした。

「だけど、相変わらず態度がデカいって言われてるよ。工場総務の時もそんなふうに言われてたでしょ。治んないね、きっと一生、アハハハハ」

 妻が社内事情に詳しいというのはやりにくいものだ。妻の耳にはボクが伝えるまでもなく会社の様子がどこからか伝わっていること、そして知られていると思うことが、わずかながらボクの気持ちを窮屈にしていたかもしれない。


 本社でのボクの仕事は営業職。ただ、営業と言ってもルートセールス、商社経由の販売だから、営業らしい仕事といってもそうたいした仕事がない。特にまだ入社五年目くらいだと、大口顧客との価格交渉も資料を集めて下準備をする程度だったから、当時のボクの仕事はせいぜい加工屋のおっちゃんと酒を飲みに行くとか、商社の兄ちゃんにくっついて歩くくらいだった。
 最大の活躍場所は成型不具合が発生したときに怒られながら現物を回収し技術部に送る、そして、会社の身代わりに叱り飛ばされて、そこをなんとか、などと言い訳する、というようなことだった。
 しかし、さすがにそう頻繁にトラブルなど起こらないから、はっきり言うと暇で仕方のない仕事だった。

 そうなると毎日五時にはすっかりオフモード。同じフロアにいる細山田という、一見優しそうで、実際女性には優しいのだが、その実、毎日マージャンかスロットに明け暮れ、ほとんど家庭をかえりみないので、とうとう奥さんが三流芸人の追っかけを始めてしまったという笑えない事情を抱えた男と、常にその日の遊びを考えるような毎日だった。

「お前はいいよなぁ、子供いないから」

 彼は口癖のようにそうこぼしていた。

「そうですか?」

 そう応えたものの、子供が可愛いと思ったことも、自分の子供を抱くとか、そういうイメージも湧いてこない。結婚したからにはそのうち親になるのだろう、その程度の想像力しか持ち合わせないボクは適当に返事するしかない。

「そうだよ。いいよ。お前が羨ましい。給料は全部使ってるんだろ、お前が」

「そんなわけないじゃないですか」

 そうではなかったがマーちゃんはお金の管理にはうるさくなかった。

「子供ができると毎月これだよ、ハハハ」

 自虐的に笑う彼が見せてくれるのは、社内預金の残高が記載されている偽の給与明細書だった。彼の奥さんが将来のためにせっせと貯めているその金を、彼はもうすっからかんになるまで使い果たしている。困った彼は、毎月給与明細書が届くと、社内預金残高をあるべき金額に偽造していたのだ。

「もうすぐ二百万超えますね……
 この実態を知ったら、奥さん、追っかけの次は何しますかね」

 所詮他人事のボクは、給与明細書のコピーを何枚もとって数字を切り貼りしてはコピーする、彼のこの毎月の定例行事を眺めて面白がっていた。

「お前、絶対に言うなよ。あっ、それから、俺はお前の家庭の悩みを毎晩聞いてやってることになってるから、そこもちゃんと理解しとけ」

「はあ?」

 なんとなく想像はできる。夫婦仲が良さそうに見えて、あいつんとこはガタガタだから、とでも言っている姿が目に浮かぶ。

「まあいいよ。余計なことは言うなよってことだ。
 さてと、今日は誰と飲みに行くんだ?」

 急に話が転じた。そうそう、肝心なのはこっちの話だ。

 その頃、ボクと細山田、それからもうひとり、スポンサー的先輩社員のかっちゃんに、数人の女性社員を加えた飲み会を開くのが週末の恒例になっていた。かっちゃんとは、気のいい金持ちの、彼女いない歴=年齢のオヤジだ。彼の恋人探しというのが、飲み会の表向きの理由だったのだ。

 その会の幹事役で、暇な女性社員を探して誘うのがボクの役割。細山田はいわゆるイケメンで結構な人気者だったから、彼が一緒の飲み会に女性社員を探すこと自体はそう苦労はなかったが、どういうわけか細山田は自分では決して女性を誘わない。だから彼のことは、二年先輩ながら、気弱なやっちゃくらいにしか思っていなかった。

「誰って、あのオヤジと既婚者のボクたちですよ。付き合ってくれる暇人はそうそういませんよ。いつものメンバーです。今回は特にスペシャルゲストなし……」

 独身で金はあるがまるでモテない経理部の課長代理がスポンサー。既婚者で金のないボクと細山田は、かっちゃんに集るハイエナだった。

 しかし、ハイエナにしか狩りができないのだから仕方ない。人間社会にも厳然たる強者の論理がまかり通っているわけだ。いや、持ちつ持たれつの美しき関係が?


「飽きるなあ、いい加減。かっちゃんのお世話も疲れるよ。
 メンバーもたまには違うラインから探せよ」

 最近、細山田はこの会に懐疑的だ。多くの女子社員が細山田目当てなのに、本人は意外と面白がっていない。人生、モテ続けてきた人間の気持ちなど、ボクにわかるはずもない。

「例えば誰ですか? 違うラインって」

「言うまでもないだろ! 経理の安住さんだよ」

(またかよ…… メンバーが不満なら自分で誘えっちゅ~の)

 そうは思うが、一応先輩だ。ここは機嫌を損ねるわけにもいかない。

「安住さん……
 いいですよね、彼女。ああいう伏し目がちな美人がいいんだよな、本当は。
 かっちゃんも彼女誘ってくればいいのに」

 経理部のかっちゃんの目の前に座っている、おそらく社内で一番の美形だと誰もが思っているはずの女性社員が安住さん。初めて見かけたときは、本当にドキッとした。和風顔のリカちゃん人形、そういう感じ。彼女を誘えと細山田から厳命をうけているが、なかなか実現できないでいるのだ。

「それもそうだよな、自分の目の前にあんな美人いるのにな。
 でもやっぱりお前も彼女いいと思うだろ?」

 彼は偽の給与明細書をひらひらさせながらニヤリと笑う。要するに誘えと言っているわけだ。

「マーちゃん賑やかだもんな。毎日相手するのは大変かもな。
 うちの女房みたいに暗〜いのも面倒くさいけど…… 」

 そう言いながら細山田は偽の給与明細書の出来栄えをじっと確認し始めた。

「人生、うまくいきませんよ」

 人生を語るほどの経験があろうはずもないが、これ以上面倒な話になるのも嫌だったので、適当にその話を切り上げた。

 ただ……
 人生、うまくいかない、そういう感じを、その当時のボクはどことなくいつも心のどこかに抱いていたかもしれない。




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