ぶーちゃん

 語るほどの確たる信念も覚悟もないが、考え事をしては時々眉根を寄せている、その頃のボクにはそんな陰鬱な一面もあった。特に何か理由があってのことではないが、漠然とすべてが面白くないと感じており、マーちゃんとの関係もボクの眉が寄る原因のひとつに含まれていた。

「また難しい顔してぇ~~ どうせエッチなこと考えてるくせにぃ~」
 だが、そんな時のボクはマーちゃんにこんな言葉でスルーされるだけだった。
「エッチだって求道者的に極めようとすると奥深いもんだからな。今、あれこれ考えてる最中だから邪魔するな!」
「イヤらしい…… ホント好きだよね、ぶーちゃんは、アハハ」

 そういうことが多いことは否定しないが、頭の中が百パーセント怪しげな姿態に占有されているわけでもない。時には仕事のことや生き方のこと、大袈裟に言うなら、人生そのもののことも考えてはいる。
 果たしてこの仕事は向いているのだろうか? 営業職という、歌って踊れる、みたいなことを期待される仕事が、ボクの天職と言えるのだろうか? 入社五年目ともなれば、そんな漠然とした職業適性のことも考えたし、このままでいいのだろうか? という、二十代後半の男子が陥りがちな疑念に苛まされることだってあった。

 生来陽気な質ではない。本当は外出するのも人に会うのもできればパスしたい。昔から「ネクラ」という言葉にダメ人間、無価値、忌避すべき傾向を重ねる風潮があるから、とても自分の素を口に出す勇気はなかったが、学生時代からひとりで鬱々とするは性格が変わった訳ではなかった。
 そんな気分を推し量ることなく、日々明るく楽しくがモットーのマーちゃんは、ボクにもそんな生き方を望んだようだった。

「まさかとは思うけど、毎晩どこかでそのエッチを試してるってことはないよね?」
「心配? 毎日してるのに?」
「ホント、ぶーちゃんはスキモノだよ。ついていけませ~~ん、アハハハハハ」

 夜ごと飲み歩いていたのは事実だが、誠に残念ながらマーちゃんが心配するようなチャンスは一度としてない。せいぜい、細山田と一緒に歌舞伎町でボラれたとか、湯島で口説いたおネーちゃんに不忍池あたりで逃げられたとか、そういう笑い話のネタにしかならないような経験しかない。
 では、そういうチャンスを期待していたかというとそれもまた違う。そもそも陰鬱な男だから、本当は陽気な飲み会が苦手で楽しめないところがある。仕事仲間だからと割り切って付き合っているところもある。

 マーちゃんは違った。そういうバカ騒ぎが大好きで、ボクがピエロ役を演じることすら喜んだ。
 だから、一緒に誰かのパーティーや結婚式の二次会に参加した帰り道で、彼女はよくこんな言い方をした。

「楽しかったね~、また行きたいね~」

 パーティーをちっとも楽しめないボクにはそれが本心なのか、人の集まりに嫌々参加しているボクへの皮肉、当てつけなのかわからなかった。
 そういう時、ボクは決まってアルコールが止まらなくなり、帰宅後も延々とビールを飲み続けることになる。彼女は三次会か四次会のつもりでもいるのか、手早く肴を用意すると、ボクの肩にもたれかかり、時にはボクの膝に頭を乗せて顔を下から覗き込みながら話し始める。

「ねえ、あの宮本さんとかいう人、あの人いつもあんなに面白いの?」
 彼女の話題は大抵がそこで出会った人の話題で、特徴をすぐに掴む特技があったから、その人の口調を真似て時々の面白おかしいエピソードを繰り返し話す。その話しぶりは面白くはあるものの、どこか人を見下したところがあって、一緒に笑っていていいのかな? なんて気になるのだった。
 おそらく彼女はボクに完全に心を許していたのだろう。だがボクは果たして彼女に心が許せていただろうか? そのことが顔に出ている気がするのだが、彼女は一向気が付く様子がない。

 そのうちボクは深酔いして本音を漏らし始める。
「マーちゃんってさ、前から思ってたけど、ちょっと感覚的に違うよね」

 すると彼女は決まってこういうのだ。
「あー、またぶーちゃんが出た、アハハ」

 よく言えば彼女は人間関係を円滑にする術を知っていただけかもしれない。深刻な話をしようとするボクを、無意識のうちに話の入り口のところで牽制するように。

「そのぶーちゃんってのやめろ! ぶたじゃねーぞ!」
「アハハ、ぶーちゃんだ! ぶーちゃんだ! アハハハハハ」
 ぶーちゃんとは、ボクが時々ぶーぶー文句を言い始めるということに由来するらしく、アルコールが入ると結構な頻度でぶつぶつ言う癖があったボクのことだから、いつしか彼女にとっては毎日がぶーちゃんであり、ボクはすっかりぶーちゃんになってしまっていた。

 もし彼女がボクよりずっと年下で、ボクのそんなところをぶーちゃんぶーちゃんと囃し立てたのなら、きっとボクも可愛い奴だなと思っただろう。だが相手は同級生だ。それに最初は先輩だと思って崇めた相手だ。ボクにするとバカにされた感覚が拭いきれない。

 それでも、その頃のボクたちはその浅い溝を抱き合うことで埋めることができた。面倒な話になりかけると、

「ねぇ、一緒にお風呂入ろうよぉ〜」

 彼女がそう言い、ボクはそうだなと言ってそそくさと裸になる。そして何事もなかったかのように抱き合って眠る。そんな毎日が当たり前のように繰り返された。

 だが、抱き合っても抱き合っても埋まらない空白が心の奥のそのまた奥に広がる。それは徐々に、本当に徐々に広がっていて、少しも小さくならない。ボクたちのどちらかが、パテのようなもので塞げば何とかなったのだろうが、ボクたちはふたりともその塗り方を知らない。


 夫婦の愛ってなんだろう?

 恋心があること、愛情があること、抱き合えること、シンパシーを感じること、同じ将来を描けること、未来を託す次世代を一緒に育むこと…… 積極的な意味ではこんなものなのだろうか?
 だが、その頃のボクには、抱き合えること…… それ以外の項目は、どれひとつとして満たされていなかった気がする。彼女だけが特別な恋心の対象かと問われれば、浮気なボクには常にクエスチョンマークが付く。彼女へのシンパシーは、ことによると真反対を向くことすらあったかもしれない。将来に関しては、彼女とのことに限らず、刹那的に今日と明日のことくらいしか考えられない。それから…… なぜか子供はできなかった。

(いつからこんなことになったんだろ?……)

 そういう時は決まって彼女と出会ったばかりの頃のことを思い出した。ただ懐古的に、昔はよかったと確認するためだけに……




総合目次 目  次 前  頁 次  頁