あの頃の彼女は素敵だった。
そんなことを思いながら彼女の寝顔を見ている……
ふと、彼女の眉間に一本の縦皺を見つける。
(ん? こんなところに皺、あるんだ)
それ以上の感慨はないが、なんとなく目が離せなくなる。
とその時、急に目覚めたマーちゃんと目が合う。
淡いブラウンで、奥の奥まで透き通って見える。本当に綺麗な瞳。作り物みたいだ。
「おはよう」
「おはよう」
「見惚れてた?」
「う~ん、マーちゃん、皺、増えた?」
「えっ! ウソ⁉」
咄嗟に彼女は自分の口元と額を覆う。そこじゃないんだけどな、と思いつつ、なんだか彼女が憐れになってしまう。
「アハハ、ウソだよ。ゴメン」
「もぉ〜!」
そう言いながらも、ほうれい線のあたりをまだ気にしている。ボクはそんな彼女をじっと見てしまう。彼女も透き通った瞳で見返してくる。
「…… お詫びにキスしなさい」
ボクは黙って彼女の目尻のあたりに軽く口づける。彼女はボクの首に手を回し、唇を合わせようと顔を上に向けた。
(夫婦の幸せって、こういう形なのかな?
この瞬間を幸福と呼ぶのだろうか?)
そんなことを思う。
(別に愛し合っている事実だけでいいのに。
なぜ、結婚という形を選んだんだろ?)
彼女のキスを受けながら、ぼんやり過去を振り返っている。
ずっと一緒にいたいね。
そうだね。
じゃあ一緒にいる?
うん、いいよ。
そんな成行きだった気がする。
ボクには結婚を契機に特別な関係が生じる、という自覚がなかった。間近に迫った転勤の前に急いで式を挙げ、面倒な披露宴は省いた。ふたりが離ればなれにならないためには結婚するしかないよね? そういうノリだけだった。
(遠距離恋愛だったら続いていたかな?
ボクは彼女をずっと好きでいただろうか?……)
ボクが無反応なことを不審に思ったか、マーちゃんは唇を離して訝しげな顔を向けてくる。
「ねぇ、何考えてるの? 最近、時々そんな顔してるよ」
彼女はボクが考えごとをすると気になるようだった。口にこそ出さないが、ホントは嫌だったのかもしれない。眉間の皺はその証拠だろうか?
「ん? エッチなこと。こーして、あーして!」
ボクはベッドの中で彼女の身体を大袈裟に触る。
「アハハハハ、やっぱりね。ぶーちゃんはそればっかだもんね‼」
彼女は身体をくねらせてキャッキャッと笑った。
こうしてふざけていれば彼女は安心する。彼女の知らない世界にボクの意識が離れることを、彼女は本能的に邪魔しようとしたのかもしれない。
(夫婦にとっての愛情ってなんだろう?)
ボクはまた、同じ問いを繰り返す。
(恋人と夫婦では愛情に違いがあるんだろうか?
十年、二十年一緒にいても、愛情は変わらないものなんだろうか?
ボクは本当に彼女じゃなきゃダメなのかな?
彼女も本当にボクじゃなきゃダメなのかな?)
こんな考えても仕方のないこと、いや、むしろ考えるべきではないこと、夫婦にとって、目の前の日常に何ら積極的な意味を与えないことを考えている。特に不満もないのに考えている。
そんなことを考えていると知ってか知らずか、彼女はベッドの中でボクにぴったり身体を寄せる。足癖の悪い彼女らしく、長い足を絡ませてくる。
「ねぇ、今日はどうする?」
「そうだなあ……」
「最近、出かけなくなったよ、ぶーちゃん。明らかに減った……」
「そう? 毎週買い物に行ってるじゃん」
「あんなのは出かけるうちに入らないの!」
「そう? 坂上部長は奥さんと買い物なんか行かないんじゃないかな?」
「おじいちゃんだからでしょ!」
「かわいそうに…… 爺さん扱いされる上司……」
「アハハハ、でも坂上さんは優しいから好きだよ」
確かに、言われてみれば外出は減った。以前なら、週末、部屋でじっとしているなんてことはなかった。だが、彼女とはもう五年目だ。一緒に遊び回っても、目新しい刺激が次々に現れるなんてこともない。
逆にこれまでずっと一緒だった反動からか、時にはひとりで図書館にでも籠るか、そう思ったりもする。
『楽しかったね~、また来たいね~』
どこに出かけたとしても、そんな反応の彼女に少し物足りなくなっているのかもしれなかった。
でも本当はそれでいいはずだ。彼女はただ、ボクと一緒で楽しい、また一緒に来たい、そう言っているに過ぎないのだし。それにボクも楽しくないわけではない。そもそも、大した趣味もなく、彼女に引っ張られて出かけるくらいで丁度いいはずなのだ。
だけどどこか満足しない。この漠とした不満の正体をボクはまだ掴めずにいるが、マーちゃんと、もうちょっと話し込んでこの不満を解消しておくべきだったかもしれない。
でも、そこまで大袈裟なことだとも思っていなかった。ボクはただ、ボクの心の奥底に湧き上がる様々な感情や、ボクの目を通して見た景色や光景が、どのようにボクの内側に映っているのか、そういうことを話したい、聞かせたい、そう思っていただけだ。
でもそこがうまく伝わらない。マーちゃんはそういう話をしたがらない。
帰り道、どこで食事をしようか、それともワインを買って帰ろうか、いや、新しくなったターミナルビルでネクタイを探そう、そういう話になる。
だけど、ボクは食べることにも着ることにも住むことにもほとんど関心がない……
綺麗な瞳でボクを見つめるマーちゃん。嫌いじゃない。ホントはこの瞳が曇る冷たいことなど言いたくもない。
「じゃあ、海にでも行く?」
だからボクはただの思い付きだけど、彼女が喜びそうなことを口にしてしまう。
「うん! 行く行く!」
でも、すぐさま面倒だな、と思ってしまう。
「あー、でも遠いな…… 多摩川でもいい?」
「え~~~~~っ!…… 別にいいけど…… 」
「ごめんごめん…… じゃあ…… 狭山湖は? あっちへはあまり行かないでしょ?」
「うん! そうしよう! 遠くない? 大丈夫?」
彼女は簡単に騙される。狭山湖への道の方が混んでなさそう、たったそれだけの理由。計算高いボクが咄嗟に楽な方を選んだだけなのに、彼女は大丈夫なのかと気遣ったりする。
(マーちゃんは素直でいいんだけど……)
ベッドから飛び起きてピクニックの準備を始めた彼女の後ろ姿を見ている。
(もうちょっとお尻が大きくてもいいかな)
そんなことだ。ボクの考えていたことは。
ただ、本当は気になっていた。知り合って間もない頃の天真爛漫さが、微かに失われてきたことを。
時々不機嫌になるボクを目の当たりにしてからは、無邪気にボクの顔を覗き込んでドキドキさせるようなことを言わなくなった。どこかでボクを恐れ、ボクの機嫌が悪くならないよう、いつも気を遣っている感じがした。
その感じというのが逆にボクを苦しめた。ボクに合わせようとする彼女の姿を見るのが嫌だった。ボクはちっとも彼女にそんな要求をしたことはないのに、なぜ彼女は自らの美点を失うのだろう? ひょっとしてそれは、妻という地位に留まるための我慢なんだろうか?
そんなことを考えた。
若くてバカな男というのは救いようがない。自分の変化には目が向かず、相手の変化だけが気になってしまう。
ボクはまさしくそのバカな男だった。