遼ちゃんはホントここが好きだね

 蘇我駅で彼の姿を見つけた時、そこにいて当たり前の家族を見つけたような安堵感に満たされた。それはちょうど六泊七日の修学旅行から戻り、校庭の片隅に父の姿を見つけた時に似ていた。
 安心感をくれる人、飛びついて凭れかかってかまわない人、最後は許してくれる人、そういう人に感じるものと同じだった。

「なんとか間に合った」

 彼は隣の席に腰を下ろすと、ふぅと息をついた。

 園井 遼平さん、遼ちゃん…… 紺のサマージャケットに、淡いピンクのクレリックカラー。長めの髪の毛にやわらかいウェーブがかかっていて、黒縁のメガネは理知的だ。

「外出してたの?」

 この時期、彼のジャケット姿は珍しい。

「いや。ちょっとね、帰る間際に来客」

 仕事の話は訊いても答えが帰ってくることはない。エリアが違っても同じ会社の教育支援部だから、大体想像はできる。

「結構真面目に急いだ。二度続けて遅れるわけにいかないだろ?」

 私の方を向くといたずらっぽく笑った。金曜日が早帰り推奨日だからといって、彼らが十八時台にオフィスを出ることは稀だ。派遣社員の私には当然でも、彼にしてみれば特別のことなのかもしれない。

「抜けてきて大丈夫だったの?」
「アハハハハ、誰だよひとりじゃ行けない、なんてメールしてきたのは?」
「だって……」
「いいんだよ、早帰りの日なんだから。遅くまでいる奴がバカなんだよ」

 この人は私の気分をいつも察してくれる。優しい人とはこんな人だと思わせる。私の数行のメールを読んで、いつもと違う何かを感じ取ってくれているのだ。そんなことを思いながら、つい、彼の目をじっと見つめてしまった。

「佳矢?」
「…… なに?」
「お腹空かない?」
「ゴメン、何も買えてない……」
「アハハ、だと思ってほら、これ」

 彼はそう言ってカバンの中からコンビニのおにぎりをふたつ取り出した。
 これでいい。このままでもいい。やっぱりこの人の傍がいい。結花が言うとおり、私自身が好きでやってることだから、選んだ人だから、この人がいいに決まっている。
 辺りはもう暗くて何も見えなかったが、私は窓ガラスに彼の横顔を見つけられるだけで幸せと思えた。コンビニのおにぎりを頬張りながら、時々窓ガラスの中の彼と語り合えれば、それで十分な気がした。


 海沿いのマンションがある終着駅には二十一時過ぎに到着する。駅前のスーパーマーケットは夜遅くまで開いている。そこで買い物をして部屋に戻る。カートを押す彼と商品を選ぶ私。笑われるかもしれないけど、こういうのが好き。マンションへ通い始めて、すぐにここでの買い物が習慣になった。

 部屋に戻ると一週間分のどよんとした空気に迎えられる。

「うわっ…… 暑い」
 部屋中の窓という窓を開け放ってもすぐには風が抜けない。結局、エアコンが部屋を冷やしてくれるまで、シャワーを浴びるより他に涼をとる手立てはない。
「シャワー使うよ」
 そう言うと、彼は服を脱ぎ散らかしてさっさとシャワールームに入っていく。これだけは悪い習慣だ。何度言っても直らない。
 最初にここを訪れた時、一緒にシャワー浴びようよと遠慮がちだったけど、最近ではそんなふうに誘われることもなくなった。

 仕方なく食材をしまい込み、買ってきた惣菜を並べ始める。彼は外食を嫌がる。

『ひと目を気にしながら食べたり飲んだりするのは仕事の時だけで充分だよ』

 仕事では、人前で話すことも交渉事も簡単そうに振舞っているのに、実は苦痛でしかないというのが真相だった。彼のことを知れば知るほど、会社で見せる表の顔と、ふたりきりになった時の、別の顔との落差が気になった。この人は私が守らなければ壊れてしまうと本気で思った。

 あっという間にシャワールームから出てきた彼は、冷蔵庫から冷えたビールを取り出すと勝手に飲み始める。彼に言わせるとビールは水と一緒らしい。

「佳矢、シャワー使えば? 気持ち悪くない?」
「…… 気持ち悪いです、ハイ。では、シャワー使わせてもらいます…… ご主人様」
「おぉ、苦しゅうない、使え」

 もし私たちが本当の「夫婦」だったら、都内のどこか小さなマンションでこんな生活が繰り広げられたのだろうか? それともここは特別な空間で、「夫婦」という関係の中では成立しない会話なのだろうか? 私にはわからない。でも彼にはわかるはず。それを訊いてみたい気が、もうずっと前からしているのに、切り出せないでいる。
 一本目のビールを飲みながら、彼はオペラを聴き始める。そして、二本目のビールに口をつけた頃、それを聴きながらウトウトしてしまうのだろう。そのままにしておけば、彼は疲れ果てて眠りに落ちるのだろうか? 私の存在などないも同然に、いつか誰かと行った劇場のことを思い出し、過ぎ去った夢の中に居続けるのだろうか……


 浴室からは遥かに夜の太平洋が見える。浴室でぬるま湯に浸かって海を眺めていると時間を忘れてしまいそう。

 慌てて浴室から出てくると、案の定、彼はソファーで横になっていた。

「…… ねぇ、起きて。ご飯食べようよ、一緒に」
 ウトウトしていた彼を揺すって無理やり起こした。
「…… ん? 寝てないよ……、全然、寝てない」
 訊いてもいないのに言い訳する。
「うそばっか」
「……だってほら、ひとりで食べるのも悪いしさ」
「飲むのはいいわけね」
「これは水と同じだから。適当に摂らないと。熱中症予防」
「…… もういいから、起きて。お腹すいたよ」
「佳矢?」
「なに?」
「湯上りはいいね」
「…… エッチ」
 食べること、飲むこと、そして抱き合うこと。その間をつなぐ意味のない会話。それが私たちのこの空間でのすべてだった。その他に何もない。日常など、どこにもない。


 総菜を並べただけの食事をしながら、彼はぼんやり窓の外を眺めている。
 遠くに漁火がいくつか見えるだけの暗い海を眺めている。

「遼ちゃんはホントここが好きだね」
「うん、好きだ。ここからの眺めが好きだ」

 彼はここを最初から気に入ってくれた。首都圏に住む子供連れなら一度は訪れるこの海沿いの観光地。彼も何度か来たことがあったらしく、このマンションのことも知っていた。

「ここはいいよ。視界の大半が海と空だからいい。煩わしいものがなくていい」

 この場所が彼をつなぎとめることのできる唯一のものかもしれない。ここに来ると彼は窓から見える太平洋の様子をただじっと眺めている。私は、この空間にいるこの人から目が離せない。きっと彼は私が思っている半分も私のことなど気にしていない。お気に入りの場所のオーナーで、ちょっとした話し相手で、好きな時に抱けて、そして飽きれば放り出せる女に過ぎない。

 そんなことを思うと、また気分が塞いできた。


 食事が終わると、彼はまたソファーに移って静かに海を眺めている。

「佳矢?」
「なに?」
「こっちに来て飲む?」
「ううん、いい。……眠くなるから」
「それがいいのに」
「遼ちゃん、オペラ聴いてる?」
「う〜ん、聞こえてる、かな」
「いっつもオペラ聴いてるようで寝てるよ」
「それが気持ちいいんだよ。劇場でウトウトすると気持ちいいのと同じ」
「…… わざわざ劇場に行ってうたた寝? そんなんでいいの?」
「別にいいんじゃない。あっ、でも、佳矢のようにイビキかくと叱られるよ」
「かかないし…… 」
「アハハ…… 」

 そのまま、彼は目を閉じて気持ち良さそうにソファーに身を沈めた。

 眠くなるから…… その意味が伝わってない。




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