酔ってぼんやりオペラを聞いている彼の横顔を眺め、彼にとって私を抱くことの意味を思った。今の彼は、女としての私を本当に必要としているだろうか?
「ねぇ…… もう寝る?」
「……うーん」
至福の時間を邪魔されたとでもいうように、面倒くさそうな生返事が戻ってくる。少なくとも、初めてここに来た時、彼はこんな声は出さなかった…… そう思うとちょっと憎らしい。
「ここに来るの面倒になった?」
そんな事が訊きたい訳じゃない。だけど、抱いてよなんて言える訳もないし、それらしく凭れかかるのも今は意地でもしたくない。素直じゃないって言われても、こんな口のきき方しかできない。わかってくれてるよね? 遼ちゃん……
「…… よし、腕相撲しよう!」
ソファーから突然起き上がり、彼は低いテーブルに右肘をつけて腕相撲の体勢をとった。
「なに? 急に……」
あのまま眠られるよりよっぽどましだと思い、私もテーブルの前に座る。
「ボクがまだまだ力強いことを見せてやる! ほら、両手使っていいから」
「両手ね! いいよ! 負けるわけないよ!」
運動で鍛えたわけでもない彼の腕は華奢だし、指なんか細くて女性っぽい。
「さぁどうかな?」
「いいよ! 絶対に負けないから」
負けるわけない。ひょっとすると本当の勝負したって負けないかもしれない。
「よし…… 準備いい?」
「いいよ!」
「せーの!」
次の瞬間、彼が空いた左手で私の脇の下をくすぐった。両手に神経を集中していた私は無防備に触られてしまう。
「キャッ…… 卑怯者!」
彼はそのまま私を押し倒し、低いテーブルを跳ね除けて覆いかぶさってきた。
「ボクの勝ち?」
「…… 卑怯者」
彼が好き。本当は好き。今でも好き。誰が何といっても好き。結婚できなくても好き。
好き……
「泣くなよ。腕相撲に負けたくらいで」
「…… そんなんじゃないから」
「わかってるから…… 変だよ、佳矢。誰かに何か言われた?」
彼はきっと女性に慣れてる。私が思うことなど、彼には手に取るようにお見通しなのだろう。
悔しい……
他の女性と無意識に比べられているようで悔しい。
「そんなんじゃないから」
「そう?」
好き……
私の瞳をじっと見つめながら、彼の左手が胸を触る。じっと見つめられている。心の変化と身体の反応を絶対に見逃さないとでもいうように見つめる。だから私も見つめ返す。
「佳矢はかわいい……」
そう言いながら、彼の左手が乳首の上っ面を触れるか触れぬほどにかすめるように撫でる。
「…… 負けてないから…… ね…… んっ……」
「佳矢のそういうところが好きだ」
彼のほほ笑むところがとても好き。大好き。もうどうでもいいくらい好き。
好き……
指のひらで乳首の周りを焦らすように触れられる。その指が一度離れて、今度はいきなり乳首を軽くつままれて思わず声が出てしまう。我慢しようとギュッと目を閉じる。その瞬間、彼が唇を塞ぐ……
ダメっ……
一瞬だけそう思ったけど、あとは彼の思うままにされるしかなかった……
翌朝目覚めると、彼は壁側を向いて寝ていた。いつからだろう? 目覚めたときに、彼の背中が目に入ることが増えた。
その背中に抱きついた。彼の首筋からほんのり甘い香りがしてくる。彼のこの匂いが好き。不思議なほど甘い香りがする。
そっと彼の首筋に唇を這わす。彼の身体が微かに反応する。
身体をぴったり背中に寄せて、彼の胸から徐々に手を下に這わせる。彼はじっとしているけど、もう目覚めていることはわかる。
彼自身に手が届く……
「…… ん……」
「…… ダメ…… じっとしてて」
彼を右手で握った瞬間、身体をするりとこっちに向けられてしまった。
「佳矢…… 最近イヤらしい」
「好きかなと思ったの!」
「好きだけど。いいよ、そんなことしなくて」
急に悲しくなった。自分に嫌気がさした。あのまま背中に抱きついて甘い香りに浸っていればよかった。同時に、彼にとって私はどういう存在なんだろうと思った。それがずっと心に引っかかっている。彼はただ優しいだけなのだろうか? それとも、本当は私を必要としていないのだろうか? それを訊けないから苦しい。悲しい。
「ずっと変だよ? 佳矢。どうして欲しいの?」
ベッドの中で裸で抱き合って、それでも本当のことを言い出せない関係ってなんなの? そう言いたくなる。そう思い始めると涙が出てくる。
「ずっと…… ずっと好きでいてくれるの?」
そう言うのが精一杯だった。結婚はしてくれないの? とまでは言えない。言い出せないことを、彼はわかっているのだろうか……
「変わらないよ。ずっと好きなままだよ。どこか変わった?」
「…… 背中向けて寝るようになった」
「え~~~~っ、そう言われてもさぁ。無意識だからなぁ、寝返りなんて」
その無意識がイヤなのだ。
「最初はもっと優しかった。遼ちゃんは私だけが好きだって思えた」
「佳矢だけだけど? 誰も好きじゃないよ。心配ならうちの部署の誰にでも訊いてみな」
「…… そんなんじゃない。そうじゃないけど……私だけじゃない」
「ん? どういう意味だろ?」
彼は彼の誰かには不誠実なんだろうけど、私には不誠実じゃないと知っている。そうじゃないの、そのことじゃない……
彼の瞳の中に私が映る。見つめられるだけで涙が出てくる。以前は恥ずかしいだけだったのに、今は哀しい。目じりに向かって綺麗な曲線を描く、彼の二重の瞼がとても好き。だけど、哀しい目。
「…… キスしてよ」
彼は少しだけ口元に笑みを浮かべ、それから私の涙を、そっと優しく、唇で拭ってくれた……