佳矢とのことは全部憶えてるよ

 ベッドを抜け出す頃には、雨上がりの澄み渡った青空が太平洋と境目なく続いていた。
 コーヒーだけの朝食を済ませると、彼が珍しくレンタカーを借りてきて、半島の南端までドライブしようと言い出した。

「房総半島ってさ、一月頃に来ると一足早い春を感じて凄く満たされた気分になるけど、夏の終わりに来るとなんだか気だるい日常を感じるだけで意外につまんないね」
 彼は何気なくその時の気分を語っただけだろうけど、私とのこともつまらない日常の延長線上にしかないと言われているようで気になった。

「そうかしら? 晴れ上がった海沿いをドライブするのは好きよ」
「そっか、佳矢は都会育ちだからな。ボクは海があることが日常だったから、海沿いの風景ってだけじゃ物足りなくなってるのかも」
 彼は西の果ての海沿いの小さな町で育っている。いつかそこへ行ってみたいと思う。彼の見慣れた光景が私の眼にはどう映るんだろう。

「都会?…… 今はむしろ山奥です」
「アハハ、そうでもないだろ? 池袋から一時間半だったらそんな言うほど遠くない」

 言うほど遠くない……

 母の言い方と同じだ。昨日の母を思い出して、おかしいやら、重苦しいやら、不思議な気持ちになった。

 彼の自宅は池袋からだとどのくらいなんだろう。多分、バスを乗り継いでも一時間もかからないはずだ。
「ごめんね、毎週……」
 思わずそう口にしていた。彼はそういう言い方をとても嫌がる。だけど、彼には池袋から一時間もかからない場所に本当は帰るべき場所があって、一緒に過ごすべき人もいるという現実を忘れられるはずがない。

 思った通り、私の言葉にはなんの反応もせず、彼は真正面を向いたままドライブを続けた。


 灯台のあたりを少し歩いて潮の香りを嗅ぐと、急にお腹が空いてきた。そこから一時間ほど走り、半島の街の外れにあるガイドブックに載るお店で、とても一口では収まりきらない握り寿司を食べ、さらにその北の高台にあるホテルのラウンジでコーヒーを飲んだ。

「いつも行ってた岬の喫茶店って焼けたんだよ」

 ひと目につかないその岬の喫茶店は、初めて彼と半島をドライブした日に立ち寄って以来、そこで時間を費やすのが習慣になっていた。目の前に広がる東京湾に大型タンカーがゆっくり行き交い、その向こうに赤い太陽が沈む。その光景を眺めているだけで何時間でも過ごせそうな場所だった。あまり人気ひとけのないその場所を彼は好んだ。

「えっ、そうなの?…… じゃあ、遼ちゃんが書いたエッセイも焼けちゃったかな?」
 初めて立ち寄った日、古い喫茶店によくある寄せ書きのノートを見つけて、彼は私とのことを簡単に綴った。他の誰かが読んでも意味の伝わらない文章だったけど、私には前夜のことを思い出させ、思わず赤面する内容だった。

「アハハ、佳矢も何か書いてたよね」
「イラスト、アハ」
 確か、彼をイメージして横顔の男性の顔を描いた。ちょっと長めの髪がサラサラ流れるように描いたから、きっと彼はそれが自分と気づいているはずだが、何も言わない。私の中に虚像が出来上がることを嫌っているのかもしれなかった。

「描けばいいのに、イラスト」
「イラストもね、ストーリーを思いつかないと描けないものなの」
「そっか…… じゃあ熱烈な恋愛でもするしかないね」
「…… 」
 私が無言になったことを無視し、彼は立ち上がって海を眺めた。

「ここは手前の木々が邪魔だね」
 確かにラウンジからの眺めは期待したほどではない。
「…… 帰りたい」
 あの部屋に帰りたい。ふたりきりになりたい、そう思った。
「そうだね。あの部屋からの眺めの方がいいな。ボクはあそこならどこにも出かけなくて大丈夫。オーディオセットも用意したしね」
 彼はそういうと嬉しそうに笑った。放っておくと一日中、あの部屋で海を眺めながらオペラを聴き続けている、彼はそういう人だった。


 帰りは西日を背に受けて同じ道を辿った。海沿いの建物が黄金色に照らされて美しい。
「西日を強く受けた海沿いの町って、どことなく哀しいね」
「そう? 黄金色にキラキラ輝いて綺麗だよ」
「うん。綺麗なんだけどね。その美しさが徐々に翳り、単調な波音が繰り返す…… そこが哀しい」
「遼ちゃん…… 遼ちゃんっていっつもそういう哀しいものの見方をする。どうして?」

 また涙が出そうだった。どうして彼はいつもこんなに物悲しいのだろう。あなたの目の前にいるのは、どうにでもできる愛人なのよ、そうとでもいえば彼は違ったふうになるのだろうか?

「そうかな…… そういう年齢なんだよ。すべてが上手くはいかないし、いずれ…… いずれ、すべては無に帰す。そういうことを知ってしまったということかな」
 何かがきっとある。私の直感がそう訴える。だけど…… 何も訊けるわけがない。

 私には初めて出会った頃の印象から、そう大きく変わったようには見えないし、童顔の彼だけど、他の人が客観的に眺めれば、彼はもう立派な四十代なのかもしれない。だけど……

 初めて会った日……

 近隣の三つの支社を統合してできた大型支社で初めて彼と出会った日、その数年後にこんな関係になるなんて思いもよらなかった。むしろ、彼は遠い存在で、派遣スタッフに過ぎない私にとって、彼は仕事でも接点の少ない縁のない人だった。
 その彼が今は隣で車のハンドルを握っている。夜が来ればまた抱き合って眠るだろう。ひと言ひと言に悲しんだり喜んだりしながらも、いつかは別れる日がやって来る。絶対にやって来る。
 でもやっぱり好きで好きでたまらず、その日を一日延ばしにし続けて、最後はこの人から捨てられるかもしれないのに、何もできずに彼の言うまま、いや、先回りして彼の好む私を演じ続けている。
 だから、彼の方を見ると目が離せなくなる。切なくて胸が締め付けられて、いつの間にか彼が霞んで見える。

「今日はボクが夕食の準備するからね」
 私の強い視線をはぐらかすように彼が言う。
「またトマト煮?」
 悔しいから言い返す。でも少し鼻声になっている。
「アハハ、それしかできないよ。嫌い?」
「ううん、好き……」

 別に変った味付けでもなく、ただただゆっくり時間をかけただけの料理だけれど、彼と台所に立っておしゃべりしながら料理をするのが好きだった。

「時々思うよ。作る間は佳矢と台所で楽しく料理して、出来上がってさあ食べよう、という段になると、一流シェフの作った料理がずらっと並ばないかなぁなんて、アハハハハハ」
「なにそれ〜、美味しくないって認めるの?」
「お世辞にも旨くはないよ。佳矢もただ煮込んだだけだって言ったぞ!」
「アハ、しつこく憶えてる」
「佳矢との事は全部憶えてるよ」

 こんな事言うから、いつまでも彼から離れられない……




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