うわっ、女も三十半ばになるとヒドイね

 日曜日の朝、七時三九分発の特急列車に乗るとふたりだけの週末は終わる。そこからは意識して日常に戻ろうとする。九時三三分、東京駅の地下ホームに別々に降り立った瞬間、私も彼もお互い相手の事など忘れてしまう……

 そんな割り切った関係になどなれるはずがない。無理に気持ちを切り換えようとしているだけ。京葉線のホームで左右に別れ、彼の姿を見失う頃には、割り切れない感情に押し潰されそうな自分だけが取り残されている。
 一度だけ、こっそり追いかけて京浜東北線のホームまで上った事があったけど、あまりにも自分が惨めで、結局そのまま隣の山手線で池袋まで帰った。

(どうしようもない。今の自分はどうしようもない……)
 そう思いながら、今朝はいつもどおり丸ノ内線に乗り、家路を辿ることにした。

 東上線のホームで出発を待つ間に結花にメールする。
『今どこ?』
 しばらくして返信がある。
『家』
『今、池袋。これから会う?』
『うん。駅前のモスでいい?』
『うん、いいよ。枇杷のジェル買ってきた』
『何それ? ゼリー?』
『化粧品』
『どゆこと(笑)』
『後で見ればわかるよ。じゃあね』
『わかんないけどまあいいや(笑) すぐだよね?』
『うん、各停待ってるところ』
『じゃあすぐだね。ちょっと待っててもらうかも』
『うん、待ってる』

 各駅停車に七分乗るとその駅に着く。高校一年生まで住んでいた街だ。今は通勤の時に通り過ぎるだけになってしまったけれど、この駅前の景色は懐かしい。いつもどこかしら変化のある街並みに、ふと昔と変わらぬ場所を見つけたりすると、あの頃の記憶がすぐに蘇る。

 夢を描いていた。ちゃんと未来を見据えて努力していた。将来に夢を抱けたあの頃、この街を歩きながら、いつかもっとキレイでオシャレな場所を闊歩する自分を想像することができていた。
 そして外資系企業に就職した。必ずしも第一希望ではなかったけれど、夢の第一歩は踏み出したはずだった。

 だけど躓いた。最初の恋で躓いた。

 配属された都心の支社で、辣腕と評された若い支社長と関係を持った。有頂天だったあの頃の自分を、三十五歳を間近にした今の自分自身が嘲笑おうとは……

『仙台任された。凄いだろ。エリア統括は同期の中でオレだけだよ。まぁ、こっちに来たら電話するよ』
 あの頃は抱き合った男女が簡単に離れ離れになるなんて思いも寄らなかった。
『仙台なんて新幹線ですぐだよね。いつでも行けるよ』
『わざわざ来るつもり? 抱かれに?』
『どうしてそういう言い方するの?』
『だって、それだけだろ? オレたちは。今さら綺麗事言うなよ』

 綺麗事…… キレイな夜景、オシャレな場所、それらが綺麗事のひと言で済まされる皮肉を今なら笑える。だけど二十代半ばのあの頃は、全人格を否定された気がした。別れの辛さより、踏み躙られた恨みの方が勝った。だから、きっぱり彼とは別れ、迷わず会社も辞めた。

 いくらでも他の人生がある、いくらでも他の人を探せる、いくらでも…… いくらでもやり直せる
 いつか…… いつか幸せな自分がやってくる、向こう側から歩いてくる、そう思って踏み止まろうとした……

 そんなことを思い出しながら、残り少ないアイスコーヒーをぼんやりかき混ぜていると、結花が部屋着姿でやってきた。中学から高校、短大までずっと一緒の彼女。高校一年生までは実家が近いこともあって、四六時中一緒に過ごした。

「うわっ、なにその格好! 女も三十半ばになるとヒドイね」
 髪の毛はボサボサ、化粧っ気もなし。心なしか顔色も悪い。
 ずっと実家住まいで、父親が経営している印刷会社を手伝っている彼女にすれば、駅前のここは居間の続きくらいの感覚なのだろうか?

「ここで気取ったところで何の得もないよ」
「そんなことないよ、ここはそうは言っても二十三区内だよ、うちの山奥とは違う」
「あ〜、確かに。佳矢んちの近くなら裸で歩けるかも」
「あんなとこでも買ったときは凄い値段だったんだよ!」
「アハハ、お気の毒様」

 三十代独身女性同士の会話は二十代の頃とはすっかり趣を変える。以前なら話題にもしなかったことが突然口を突いて出てくることもある。現実的なこと、金銭的なこと、あるいは将来の親とのことなど、陽気に笑い飛ばせない話題も知らず知らず忍び込んでいる。
「うちの母親が結花連れて来いって煩いんだよ。一度来る?」
「う〜ん、行ってもいいけど、『鴨川行ってるのは私じゃないですぅ〜』、ってバラしていいの?」
「…… そうしてもらおうかな」
 なんとなく、八方塞がりな自分を、結花に打開してもらいたくなった。

「なんか深刻だなぁ。どうしちゃったの?」
「どうもしない。朝早い列車に乗って帰ってきたから、寝不足なの」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。お若いおふたりが週に一度きりですからね、それはそれはしなきゃいけない事も多いでしょうしね、夜ごと夜ごと」
「ばっかじゃないの? あなたこそどうなの? 引っ越すなんて本気?」
「結構本気」
「できるの?そんなこと。現実的に」
「仕事のこと?」
「うん。いくら家事手伝いと言っても、仕事は仕事でしよ?」
「うん。まあね。でもさ、考えたら私のやってることって、別に会社の中じゃなきゃできないって訳でもないんだよ」
 詳しくは知らないが、彼女は校正やらレイアウトやら、データのやりとりで済む業務を担っているような事を言っていた。
「父親にそれとなく話してみたら、別に仕事が滞らなきゃいいって言う訳よ。母親は反対だけどさ」
「そんなものなの? 父親って」
「さあ? だけど、うちは弟もいるし、昔から私はあてにされてないしね」
 そうなんだ、とも、そんなことないよ、とも言えず、完全に溶けてしまった氷のないアイスコーヒーを仕方なく混ぜ続けた。

「あっ、そうだお土産。ほらこれ、枇杷のジェル!」
「アリガト。枇杷ってあっちの名産だっけ?」
「だと思うよ。よく知らないけど」
「じゃあ、ヤツに試してから使うよ」
「実験台? じゃあ私もその結果聞いてから使うかな」
「あっ、でもなんかいい香り!」
 結花の開けた化粧瓶から、仄かに半島の残り香が漂った。

 その後、結城クンが使ったかどうかは知らないが私は使っている。
 そして使うたび、遼ちゃんとドライブした南房総の景色を思い出している……




総合目次 目  次 前  頁 次  頁