やっぱ女は損だわ

「どう思う? ウザい女かな、私」
 アイスコーヒーをカラカラ混ぜながら、結花は視線を落としたままポツリと呟いた。

「男って追いかけてくる年上の女は嫌なものかな?」
 コップの水滴を指先で拭いながら、私は肯定も否定もできず、ふぅ、とため息をついた。八歳年上の彼を追いかける私ですら、本当は嫌がられてるんじゃないかと気にしている。結花の気持ちはよくわかる。

「曖昧なんだよ、あいつ」
「何が?」
「今度、近くに引っ越そうかなーって言ってみたのさ。でもあいつ、自分がどこに住んでるか教えないんだよ。引っ越したら行くよ、ってだけでさ」
 その時のふたりがリアルに脳裏に浮かび、一瞬、言葉を失った。
 私ならそこでもう終わり。その先の反応が怖くて次に会うなんて考えられない。
 でも結花は私とは違う。男性からの愛情を黙って待つような女性じゃないはず。なのに、そんな彼女がいつもより俯き加減だから、つい期待を繋げられそうな言葉を選んでしまう。
「まだ新人だから他の人の目も気になるんじゃない?」
「そうなのかなぁ」
「来るなとは言わないんでしょ?」
「言わないよ、そんなこと。
 この前もさ、時計が欲しいって言うから、買ってやったよ。こうなったら車でもなんでも買ってやるよ」

 好きだからいい、自分がしたいからしてるだけ、彼女の答えはいつも同じ。だけど、何かを介在させなければ成り立たない関係に納得している訳ではないだろう。
 私も人のことを偉そうに言える立場にはない。海辺のあの部屋だけが彼を引き止めているようなものだから……
 でも、もし相手と心から繋がれるのであれば、物や金銭が介在してもいい気がする。結婚して安定を求めることだってそれと似たようなもの。相手が差し出す物や金銭に繋がっている。そこに違いはない。

「結花がしたいと思うとおりにすればいいよ、それで」
「ホントにそう思う?」
 強い視線で問いかけられた。嘘はいらない、そう訴えてくる。
「ごめん…… 本当のところはわかんない」
 彼女のことを背負える余裕なんて、今の自分にはない。

「いいんだ、佳矢がどう思ってても。
 だけど知ってて欲しい。バカだなあと思っても、今みたいに聞いてくれればそれでいい。誰からも関心なくされると死にたくなっちゃうから……」
 強い女のはずが、驚くほど弱気を漏らす。三十五歳…… ふと、窓ガラスに映ったふたりの姿が目に入る。
「そんな……」
「前はふたりでよく飲み歩いたよね。でも今は……
 なんか取り残された気分。焦るよ全く」
 そう言ったきり、結花は再びアイスコーヒーをカラカラかき混ぜた。

 ひと組の男女が注文カウンターで商品の出来上がりを待っている。そのうちの女性と目が合いそうになったが、すーっと視線を逸らされた。
「結花…… 私のは先がない関係だから」
 男女の方に目を置いたまま、不意にそんな言葉が口を突いて出る。
「だけど毎週だよね? もう二年でしょ? 三十半ばの独身女相手に四十過ぎの男が先も考えず続ける? そんな関係」
「彼は続けられる人なの」
 その言葉に、結花は呆れたと言わんばかりの顔を私に向けた。
「続けられること自体が愛なんじゃないの?」

 そうなのだろうか? 一瞬、彼の姿を思い出そうとしたが、私にはプラットフォームを去っていく後ろ姿しか浮かばない。
「じゃあ訊けばいいじゃん? この私をどうしてくれるのよ? って」
「…… 訊けない」
(訊ける訳がない…… 結花と私は違うんだよ……)
 そう応える前に結花がじっと見つめて言う。
「佳矢は訊けないか…… そうだよね。佳矢は訊けないな。
 訊けない代わり、わっかりやす〜〜い態度取ったりするんでしょ?」
「なにそれ?」
「相手をじーっと見つめて突然涙を流す、とかさ、アハハ」
「…… 」
「当たっちゃった?
 カワイイなぁ~佳矢は、とか言われてるんでしょ⁉」
「…… 」
 見てきたように言うから、何も言い返せない……
「バッカみたい‼ あんた、たまには私の心配しなさいよねっ!」
 結花が笑いながら私の肩を叩く。
 そんなふうにされると、私は幸せの中にいる気がしてくる。少なくとも、自分が思っているほど悲しい関係ではないのかもしれないと思えてくる。

 ふと思う。何もかも条件が揃った愛の中に、一体どれだけの女性がいるだろう? 相手の愛情に過不足なく、微妙なすれ違いを抱えることのない恋愛に、一体どれほどの女性が恵まれているだろう?
 私だけが特別な不幸の中にいるわけじゃないのかもしれない。
「考えたらさ、週末だけ一緒、って関係は悪くないよ。
 佳矢はこのままでいいよ」
「ありがとう…… 」

 泣けてきた。

 誰かを傷つけている、それがわかっている恋でも誰かには許して欲しい。認めて欲しい。無条件に認めて欲しい。倫理や正義を持ち出さず、ただ黙って認めて欲しい。どこかでそう願っている。だから、結花の言葉に涙が零れた。

 結花が私の肩に手を廻してほほ笑む。自分は味方だから、そう言ってくれているように感じた。

「結花は頑張ってね。相手は独身なんだし、誰にも遠慮いらないよ」
「アハハ、そこじゃないんだなぁ」
 結花は少し悲しげな顔をして、私の肩から手を離した。
「愛されてるかどうかが問題なんだよ、私には。愛されてる佳矢にはわからないだろうけど?」
「愛されてるのかなぁ…… 」
「じゃあ聞くけど、どういうのが愛されてるってことになるわけ? 佳矢は何が不足?」
「…… 結婚できない。人に言えない…… 子供も産めない」
 結花は驚いた顔でストローから口を離した。
「そう言われると不幸だわ。そんな事、佳矢が望んでるなんて、思いもしなかった」
「私は現実主義者なのよ、昔から」
「そうだよね。目標に向けてコツコツと! だよね」
 高校時代の教師の口真似でからかわれる。
「嫌な言い方……」
「ごめん、ごめん。
 でもね、彼を選んだ時点でそんな事は割り切ってると思ってた」
「割り切れたらいいんだよね…… でもね……」
 朝起きて、背中に抱きついて、しがみついたまま離したくなくなって、悲しい顔になって、するとじっと顔を覗き込んで話を聴いてくれて、あぁ、この人になら何でも話せると思えてきて、そして…… 何度も何度も抱き合ううちに、毎朝傍で目覚めたいと思うようになって、叶わぬ夢と知りつつ夢を見始めて…… それらが割り切れないと言いたかった。
 だけど言葉にならなかった。

「言わなくてもわかるよ。私だって女だから。まもなく三十五歳になる女だからさ」
 結花はボサボサの髪の毛を指で掻き撫でながら続けた。
「でもさ、もういいや。相手から何かしてもらおうなんてさ。諦めた」
 彼女はボサボサの髪の毛が少しは落ち着いたかどうかをガラス窓で確認しながら、さらに続けた。
「不自由だよね、相手に委ねるなんて。私は私が好きな限りで愛する。それ以上はできないし与えられない。でも、したいと思ってできる事は全部する」
「でも…… 子供ができたらどうするの?」
「産むよ。育てるし。自分で」
「ひとりで? それは無理でしょ」
「親もいるから大丈夫じゃない? いざとなったら佳矢もいるし」
 そう言って彼女は笑った。現実は彼女が思うほど楽観的なことではないのかもしれない。でも、もし彼女が頼ってきたら、私は嫌いな母親を説得してでも手を差し伸べようと思う。他人事だとこんなにも簡単に答えが出るんだと思うと、可笑しくなった。

「佳矢…… 子供つくっちゃいなよ」
 結花は思ったよりずっと真面目な顔でそう言った。
「私はいいけど…… 子供にとってどうなんだろ?」
「子供の気持ちかぁ…… そこまで考えなきゃだめかな」
「そうだよ」
「そっか…… 女はやっぱ損だわ」
 彼女は思ったより大丈夫だった。むしろ、私の方が結花に吐き出したいことが沢山ある。
「ねぇ結花」
「なに?」
「引っ越すと寂しいよ」
「お〜、よしよし、離れても見捨てないからさ」
 そう言って彼女は私の肩をもう一度抱いた。

 彼の身代わりにはならないけれど、もし万一ふたりともシングルマザーになったら、彼女と一緒に暮らしてもいいかって、その時ちょっとだけ思った。  




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