園井さんの奥さんってどんな人?

「おかえり。何か買って帰った?」
「はい、枇杷ジェル」
「なに? これ」
「美顔になるんだって」
「そう。それより食べるものない?」
 母親はよほど空腹なのか、手渡した化粧品そっちのけで私の手荷物を覗き込んだ。
「お母さん昼間ずっと家にいたんでしょ? 何か買って来れば良かったじゃない」
「気が利かない子ね、あなたって」
 母親は不機嫌な顔で荷物を放り出した。
 その言葉と態度に唖然とする。褒められることをしているつもりはない。だけど、片道二百キロ以上の道のりを、彼女の所有する物件のために行ってきたのだ。それなのに、その報いが『気が利かない子』?
 …… 一瞬、そう思ったが、母親のため、なんてつもりもサラサラない。文句を言う筋合いでもなかった。

 ふと、彼がこの母親に会ったら…… そんなことを考える。未来永劫起こるはずのないことだけど、もし万一彼と結ばれたら、彼はこの母親にどう接するだろう? それを想像しようとすると、せっかく結花に励まされたのにふたたび気分が塞ぐ。

「お母さん。結花はね、彼と同棲するために家を出るんだって。ご両親とも賛成なんだって」
 事実を変えて結花の話しをしてみる。あなたの娘もいずれ出て行くんだから、そんなつもりで言ってみる。

「あら、そうなの?
 まあ今は結婚前の同棲も当たり前だし、私も反対なんかしないわよ」
 この人の言葉だけを素直に受け取れば理解のある母親なのだろう。
「だけど、ここにこれだけ広いお家があるのに、わざわざ狭い部屋を借りる必要もないわよね? 無駄だわ」
 無駄…… 最後の言葉が突き刺さる。結局、母は賛成なんかしちゃいない。
 この人の頭の中は常に自分。自分、自分!自分‼

 言い争いになるだけだから、無視して自分の部屋に引き籠もる。彼と週末を過ごすようになってから、母親を疎ましく思うようになった。今の私には彼と過ごす週末だけが現実で、それ以外の、特にこの家での時間は仮の時間に思えてくる。この場所は日曜日から木曜日まで、ただ眠るためだけに帰る場所。だから、できるだけここでは何も考えない、やり過ごそう、そう思った。

(疲れた)

 彼と過ごす海辺のマンションまでの往復はそれなりに疲れる。誰にも邪魔されず彼とふたりきりで過ごせる場所だけど、身体はどこか落ち着ける場所を身近に求めている。
 彼はどうなんだろう? そのことを思ってみる。日曜日の午後、何事もなかったかのように家族と過ごすのだろうか? 彼はこの三重生活に疲れないのだろうか?

(疲れた…… )

 日曜日の夜は嫌だ。思うまいとしても家族と過ごす彼の姿が浮かんでくる。その姿はとてもリアルで、彼も、彼のひとも、家族もみんな幸せそうだ。彼が家族と諍いを起こす姿など想像できなかった。

(彼なら、お母さんとも上手くやれるのかな)
 またそんなことを考えている。

 ふと、ある光景が蘇る。支社の窓口にやってきた高齢の女性を、いたわるように肩を支えてエレベーターホールまで見送った彼の後ろ姿…… 
 あの時、口の悪い社員たちは「園井は根っからの女好き、ばあさんでも女性だから扱い方が違う」などと陰口をたたいた。

(あの老婆が母親であったとしても、彼なら……)
 円満な家族の姿を思い描いてみた。
(…… バカみたい)
 一瞬でそれを打ち消した。

 日曜日の夜は本当に嫌だ…… そう思いながらベッドに寝転んだ。
 眠れぬまま、彼を身近に感じた頃のことを思い出している。

 …… 


『…… ボクは必要とされていない……』
 園井さんがふと漏らした言葉を、私はちゃんと聴いていた……

 …… 打ち上げはもう三次会。大型支社になって初めての上半期末。日付が変わるまで残業を続けた結果がようやく報われたのだから、その日は誰もが束の間の解放感に浸っていた。
 支社長が貸し切った広いスナックで、いくつかのグループに分かれて座った。私たち派遣スタッフは全員が同じ場所に集まる。社員も気の合う者同士が自然に集まる。だが、遅れて入ってきた園井さんと、彼が直接指導している二年目の駒井クンは、入り口近くに席を占めた私たちのところで腰を下ろした。

 あの頃の園井さんはどこか謎めいていて、何かと噂の多い人だった。バツイチの再婚者、さらに、前の部署と、その前の部署でも女性問題を起こした、なんて無責任な噂が流れていた。
 噂は噂としても、園井さんが周囲の男性社員と異なる雰囲気を纏っていたのは確かだった。仄かに男の色気が漂う人。緩めたネクタイが似合う人。家族を大切にしているらしいけど、反面で無防備だし、すっと入っていくと拒まれない感じがする。そんな不思議な人。
 仕事にソツはないが協調性もない。周りを見回して同調する、なんてところは見たことがない。いい意味でクール。陰で文句を言う男性社員は多かったけれど、女性社員の中には「あの人なら仕方ない」そう言って彼を認めてる人も多かった。高島さんなんかその典型。憎らしい……

 この夜も、他の男性社員には決してしないような質問を、派遣社員のみんなが聞きたがった。彼のプライベートなこと。

『園井さんの奥さんってどんな人なんですか?』
 派遣スタッフリーダー格の井原さんが質問する。私も訊いてみたかったけど口にできなかった質問。みんな、彼の言葉をじっと待っている感じがした。そんな雰囲気を感じたのか、園井さんもしばらく考えて、言葉を選びながら答え始めた。

『う~ん、そうだな…… ひと言で言うと…… 何も欲しがらない人?』
『えーーーっ? そんな人いるんですかぁ?』
 意外な回答で誰もがその意味するところを測りかねた。
『ごめん…… うまく言葉が見つからない』
 みんなしーんとしてしまった。彼が正直に何かを伝えようとしてることはわかる。だが、何も欲しがらないということの現実味がなさすぎる。
『…… それって余程園井さんを信頼してるからですよね?』
 誰かがそう言う。確かにそうだ。何も欲しがらないなんて、言い換えれば恵まれた専業主婦の余裕と特権的状況を言っているに過ぎない。
『そうなのかね。ボクに言ってもムダだと思ってるだけかもよ』
 ちょっと寂しそうに見えた。
『いや…… そうじゃなくて、言わなくても与えられるからですよ』
 誰かがため息交じりにそう言った。
『与えられるか…… 何ひとつあげてるつもりもないけどね。アハハ』
 彼は謙遜や自虐で自分自身を笑っているのではなく、大切な何かを手にできていない寂しさを伝えようとしていることが私にはわかった。そういう印象を受けた。
 彼の向こう側にいる女性ひとに、なんでもできる人、サラサラしていて、どこにもこだわりがなく、スマートな人。第一印象で感じた遠い人というイメージは、彼の寂しげな横顔が落とす、この人の影だったのかもしれない。

 …… そこにスタッフを直接指導する社員の高島さんがやってきた。来なくてもいいのに……

『ダメよ、この人に騙されちゃ。クセ悪いんだから』
『園井さんの奥さんのこと聞いてたんですよ』
 彼は特別気にする様子もなく、ただ笑っている。誰が何を思っても、自分には何ら関係がない、そんなふうな感じだった。
『園井さんの奥さん? 私、会ったよ』
『えっ? どこで?』
 この時ばかりは園井さんも少し驚く。
『ほら、みすゞ会のチャリティーコンサート。あなた奥さんと来てたじゃない』
 みすゞ会というのは、代理店の奥さんが主宰しているチャリティやボランティアをする人たちの集まりだ。
『あー、あれか。あれ? 高島さんも来てたの?』
『あなたね…… チケット押し付けたのもう忘れたの?』
『そうだっけ? アハハハハ、そんなんばっかだから忘れたよ』
『ほらね、この人はこういう人。だからダメよ、信じちゃ』
 高島さんは口とは裏腹に彼を笑って許している。手際が良くて膨大な仕事量も平気でこなす代わり、私たち派遣社員にも容赦ない高島さんが、彼にだけは無条件で甘い。

『どんな人でした?』
『言っていいのかな……』
 高島さんは園井さんの方をチラッと見て次の言葉を続けた。その仕草が秘密を明かしていいよね? というふうでちょっと妬けた。
『化粧っ気のないサバサバした感じの人。でも綺麗よね』
『そりゃどうも…… でも……』
 そう言ったものの、彼はその後の言葉を濁した。

 その後、勧め上手な高島さんと井原さんを相手に、彼は散々飲んでいた気がする。そして隣に座った私にポツリと言ったのだ。
『でも…… ボクは必要とされていない……』
 それを聴いていたのが私だったことを、彼は憶えているだろうか……
(私が必要としてあげる…… )

 …… バカバカしい、もう寝よう。一時をとっくに回った……
 月曜日がやってきた。週末まであと五日ある。




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