大井! 朝礼やっとけ!

 毎朝六時半に家を出る。池袋に着くのは八時過ぎ。駅ビルのドトールか、オフィスビル一階のタリーズに立ち寄る。これが私のルーティン。習慣だからこうしないと一日が台無しになる気がしてしまう。今朝はドトールで三十分ほど気分を落ち着かせた。

 支社はここのところピリピリしている。まもなく臨店検査が入ると噂されているから仕方がないが、こっちの段取りを無視していきなり「コピー‼」とか言われるとカチンとくる。支社長は毎朝のように「避難訓練を真面目にやらない連中はいざとなった時に逃げ遅れる」と訓示しているが、逃げ遅れる前に踏みつけられて死んじゃうよ、と思ったりする。
 しかし、今朝の雰囲気はいつもよりずっと深刻だった。普段、出社の遅い支社長が既に席について、飯田さん、京極さん、ふたりの支社長代理に指示を出している。

「おはようございます……」

 恐る恐る挨拶するが、いつもならにこやかに挨拶を返してくれる京極さんですらちょっと振り返っただけ。それだけで深刻な事態がわかる。私はできるだけ存在を消して自分の端末を立ち上げた。

 やがていつもの順番通りにメンバーそれぞれが出社してきたが、妙な雰囲気を誰もが感じるらしく、そこここで二三人集まり、ひそひそ噂話を始めた。

「大井! 朝礼やっとけ!」

 いきなり支社長の不機嫌な声が響く。主任の大井クンが、ボクが?とキョトンとした顔をするが、支社長たちは彼のことになど構う間もなく会議室に消えて行った。

「えーっと…… では朝礼を始めます」

 大井クンが慣れない仕切りでしどろもどろの朝礼を始めると、みんなクスクス笑い出す。会議室へ向かう三人の深刻な顔と、笑っている他のメンバー達との落差が大きくて、しばらくすると弛緩した空気がオフィス内に漂い始める。その空気をつんざいて飯田さんの声が響いた。

「峰岸さん! ちょっと」

 女性筆頭の峰岸さんが呼び出された。ふたたびオフィス内に緊張が走る。
 だけど、どんなことだろうと私たち派遣スタッフにはあまり関係はない。もし、私たちに関係するような人事や人員のことなら、派遣会社の担当者から先に知らされるはずだし、それ以外のことで派遣スタッフの身上に重大なことが発生することなど滅多にない。私と周囲の派遣スタッフは、テレビドラマの次回話を待つ心境で、オフィス内のやりとりを眺めていた。

 しばらくすると、京極さんが暗い顔をして会議室から出てきた。彼はそのまま無言で出かけようとする。行き先ボードには「エリア」と記された。担当地区を巡回してくるって意味だけど、それはないでしょ?

 私は思い余って出入口のところで彼に声をかけた。
「いってらっしゃい。気を付けて」
 京極さんは少し驚いた顔で私を見つめた。
「うん、行ってきます……」
 その続きに、何か言い添えたさそうにも見えたけど、結局そのまま黙って外出して行った。そんな彼の様子に少し心がざわついた。


 京極さんが出かけた後、支社長と飯田さんが席に戻り、お昼休みに十分ほど全員で打ち合わせをするので、休憩時間をずらすようにと指示があった。いつもなら私たち派遣スタッフにそんな指示は出ないのだが、この日は私たちを含めた支社員全員が会議室に集められることになった。

 昼休み、会議室に入ると、黒板を背に支社長が苦虫を嚙み潰したような顔で資料に目を落としている。

「全員集まりました」
 飯田さんが支社長に声をかけると、支社長はひとりひとりにしっかり目を配りながら、ゆっくり話し始めた。

「お昼休みにすいません。スタッフの皆さんもすいません。会議時間分は休憩延長してもらっていいですからね」
 苦労人らしく、支社長は細かな気遣いから話しを始めた。

「えーっとですね…… 入検前ですが、コンプライアンス事例が発生してしまいました。
 ではないな。正しくは、個人情報保護に関連する不祥事案が発生したので、コンプライアンス規定に則り、これから適正に処理をするところです。細かな事柄をすべての皆さんにお伝えすることはできませんが、そのような事案が発生していることを全員で共有化し、これから飯田君が説明する通りの対応を各自とっていただくようお願いします…… ということだな」
 支社長はマニュアルに書いてある文面をそのまま読みながらも、この慇懃無礼で温かみのない文章に違和感を抱いている感じが伝わってきた。

「まぁ、ぶっちゃけて言うとね、京極君がちょっと酒に酔ってカバン失くしちゃってね」
 ここまで聞いたところで、若手社員から失笑が漏れる。

「いや、仕方ない、人間は失敗するもんだから。でもな、あいつは偉い。夜中の三時にオレを電話で叩き起こした。すいません、支社長! カバン失くしました! って電話を寄越した」
 次第次第に女性社員も笑い始める。

「それでな、オレは思わず、金がないのか? それならうちに泊まりに来い、とまあ半分寝ぼけてるわけだ」
 支社長のいいところは、こんな話もちゃんと笑い話にしてくれるところだ。

「いや、違うんです、支社長! 個人情報が二件入ってました、って言うんだな、これが」
 ここでさすがにちょっと参ったという顔を支社長はしてみせた。

「でな、そう言われると、私もしかるべきラインに報告する必要に迫られるわけだ。アハハ…… 夜中の三時に、業務サービスのリーダーに連絡入れるのね、手順だから。するとな、一応詳しいことを聞かれるわけだ。でもこっちも何もわかってないからしどろもどろなわけ。で、最後には、何時だと思ってるんですか‼ と叱られるわけだ、アハハ」
 お気の毒と言うべきなのか……

「ねっ、こうなるわけよ。で、今度は朝っぱらから詳しい報告はまだかー、まだかーって催促される訳よ」
 最初に勤めた会社でも似たような事があって、アイツもよく愚痴ってたっけ……

「ということなので、皆さんも個人情報の取扱いについてはルール厳守でお願いします。片平! 個人情報取り扱いのルール、説明しろ」
 こういう時は最も若い社員が試されるのはお決まりだ。

「はい。えーっとですね……
 原則持ち出さない、必要なときは持ち出し管理簿に書く」
「よし、もういい。原則持ち出すな! いや、絶対持ち出すな! めんどくせーから持ち出すな。もう、仕事なんかいいから持ち出すな! って言うと大井が真に受けそうだからやめとこう。
 どっちにしてもくそしゃらくせー。はい、解散! あとは飯田、それぞれに説明しといて。オレは寝る」
 そういって支社長は会議室を真っ先に出て行った。
 寝るどころか、きっとこれから業務サービス部であれやこれやの質問攻めになるのだろう。

 でもそんなことより、京極さんのことが気になった。京極さんも、こんなこと、笑い話にできればいいんだけど。そう思った。




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