遼ちゃんは卑怯だよ

 次の日も京極さんに笑顔は戻らなかった。笑顔のないまま、外出してしまった。

 紛失事故そのものは該当するお客様の許しを得ればとりあえず終わる。京極さんと担当代理店さんはあの後すぐに二軒のお客様を直接訪問し、謝罪して許していただいたそうだ。
 支社長の言う通り、人間は失敗する。決して褒められる話じゃないけれど、失敗はどこかで忘れることも大切だ。原因と対策をきちんと報告すれば一応終わりでいいはずだ。
 だけど京極さんは落ち込んだまま。私が言葉を掛けたくらいじゃなんの慰めにもならないと知っているけど、それでも何か声をかけなきゃ、って気になる。
 ただ、それは先週末に彼に誘われて必要以上に彼の事が気になったからかもしれない。もしそのことがなければ京極さんはただの同僚のままで、私の関心もここまでではなかったかもしれない。
 私は自分の身勝手さに自分で呆れた。

 一方で、人の失敗を喜ぶ人もいる。その筆頭が大井クンだった。

「まずいっすよねぇ、臨店前ですもんね。京極さんもやらかしましたよねえ」
 楽しそうだ。見るからに京極さんを舐めきった様子でイヤな感じだ。
「しかたねーよなぁ、全く。そもそも月曜から深酒なんかするかね」
 笑ってこそいないが、飯田さんも京極さんを庇うつもりはさらさらなさそうだ。確か、年齢は京極さんがひとつ上だと思ったが、この人には先輩を敬う、って感覚などさらさらなさそうだ。京極さんと違って自分はデキが良い、とでもアピールしているつもりなのかしら?

「誰と飲んでたんですか?」
 大井は興味津々で質問する。
「田原さんでしょ。代理店の」
 彼とペアを組んでいる笠島さんが口を出す。
「田原さんって、あのおじさん? あんな人と付き合って何か得があるんですかね」
 大井は物事を損得だけで考えるようだ。まだ若いくせに。
「仕方ないですよ、ダメな人は何やってもダメなんだから。
 知ってます? 京極さんだと頼りないから担当変えてくれってライフの専務が支社長に申し入れしたらしいですよ」
 笠島がダメを押す。人の発言を借りて間接的に本心を晒す人ってホント嫌い!
 そんな周囲の声に知らぬ間にキッとした顔になっていたのだろうか、片平クンが小さくクビを振って我慢我慢と目で合図した。私も大丈夫、冷静だから、というつもりで二度頷いてみせた。

(どこも同じようなことばかり……)

 ふと、最初に入社した会社でのこと、そして、派遣社員として初めて勤務したあの大型支社でのことを思い出していた。似たようなことはどっちでもあった。失敗した人を陰で笑い蔑む雰囲気。暗に自分は違うんだと主張する、人としてイヤな部分をここでも見せられるのだろうか。

 彼と出会った大型支社ではひとりの新人女子社員が犠牲になっていた。給湯室や女子トイレで泣いている姿を見かける度、同じ業界を経験してきた私は心が痛んだ。大型化に伴って人員が削減され、新人に手をかける余裕がなかったのかもしれないが、毎晩のように続く残業のイライラが、その新人に向けられている気配を感じなくもなかった。

 日頃、彼は他人の仕事ぶりに関心を示さない。誰が何をしてもしなくても淡々としていたし、自分の仕事が終わると他の全員が残業していてもさっさと帰ってしまうようなところがあった。だけど、その時、彼だけがその新人に手を差し伸べた。後で聞いた話だけど、会議でこう宣言したらしい。

『あのさぁ、仕事ができる、できないは知らないけど、新人で入ってきたばかりの子に簡単にレッテル貼る、ってどうなのかねぇ。単に計上ができないだけだろ? それなのに皆の言い分だと彼女は全部ダメ、って決めつけてるように聞こえる。それはおかしいだろ?
 できなきゃ他の仕事やらせればいいだけの話じゃないのか? そんな寄って集ってできないできないって文句言うなら、オレのところで代理店担当させるから、もうそっちから外せよ』
 その話を後で聞いて、日ごろ真面目に仕事してるのか疑っていた私は、彼をいっぺんに見直した。私だけでなく、そんなふうに彼のことを再評価した人は多かったような気がする。

 そんなことをふと思い出していたら、なんだか彼にメールしたくなった。この日は仕事が手に付かなくなり、私は書庫内の整理を始めて時間をやり過ごした。


 深夜、いつもの時間にメールした。平日は二十三時過ぎに私からメールする。こっちからメールしないと彼からメールが来ることはほとんどない。
(最初のうちは彼から来てたのに…… まっ、いいか)
 彼にはつまんない話とも思ったが、我慢できずに昼間の様子を書いて送ると、彼からはこう返信があった。

『まぁイレギュラーな事故が発生しているわけだし、動揺するメンバーも出てくるかもね』
『そんなんじゃないよ、あれは明らかに陰で悪口を言うイジメと同じ』
『そっか。まあ、いろんな奴がいるからな』
 彼には他部店のことでもあるし、関心がないのかもしれないが、ちょっと意外な反応だった。

『私はね、遼ちゃんが市来さんを庇って自分のチームに引き取った時の事を思い出しちゃったんだけど』
 毎日のように給湯室で大泣きしていた子のことを話題にしてみた。

『市来か…… 懐かしいな。元気なのかな、アイツ』
『せっかく遼ちゃんが助けてあげたのに、さっさと結婚して辞めちゃうなんてね。遼ちゃん、ちょっと寂しかったでしょ?』
 代理店さんへのシステムフォローを任された彼女は、水を得た魚のように活き活きし始め、給湯室で泣いていた姿が嘘のようだとみんなが驚いた。ところがその彼女は二年後、周囲の期待を知ってか知らずか、あっさり寿退社してしまったのだった。
『ううん。彼女が幸せならそれでいいよ。ボクに全責任が取れるわけじゃないし』
 彼らしい回答だった。人への期待感が淡い。そんな彼が私だけに特別な感情を抱くものだろうか? 時々不安になる。

『…… なんか妬ける』
 言葉を変えて何かを伝えようとした。
『こんなんで妬いてたらきりないぞ(笑)』
『まだあるの?』
『あるある(笑)』
『…… 』
『佳矢?』
『なんですか?』
『週末は天気いいかなぁ』
『あっ、誤魔化した』
『カワイイねぇ、佳矢ちゃんは』
 いくつになっても「可愛いね」と言われるとキュンとする。文字だけでも嬉しい。バカだなと思っても嬉しい。私は不安を忘れた。でもそれを上手く伝えられない。そこまでバカになれない。素直じゃない自分もいる。

『遼ちゃんだけだよ、そんなふうに思ってくれてるのは』
『そうかなぁ。いくらでもいると思うけどなぁ。佳矢はホントに可愛いと思うよ。ぷにょぷにょしてるし(笑)』
『あ〜〜っ、ぷにょぷにょが好きって言ってたのに〜(笑)』
『そうだよ、好きだよ。だから、ボクみたいに、佳矢の事がいいなぁと思ってるヤツは必ずいるよ。いるだろ? ん?』
 すぐに京極さんが頭に浮かんで、少しだけ返信が遅れた。

『いないよ』
『(笑)いいからちゃんと相手を見てごらん。何かのサインを出してるかもよ』
『いないから、そんな人!』
『いたらの話(笑)』
『遼ちゃん……』
 何と書けばいいのかわからなかった。そういう人がいて、その人が弱ってる、どうすればいい? って書くべきなのだろうか。

『佳矢』
『…… なに?』
『ボクはずっと佳矢が好きだ。佳矢が必要ならずっと傍にいる。でもね、佳矢がこの人いいな、って人ができてもいいと思ってる』
 この人はいつもこんな言い方をする。会っている時も、メールでも、もう情けないくらいこんなふうに突き放した言い方をする。
『卑怯者…… 遼ちゃんは卑怯だよ!』
『そうかなぁ』
『だって、オレを信じろとか、待ってろとか言わない! 一度も言わない! もうイヤ‼』
 思わず携帯を放り投げていた。情けない自分をイヤというほど感じて、私は身体をギュッと丸めた。

 その夜、携帯が鳴ることはなかった。




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