タリーズ同盟

 夜中、二時過ぎまで彼からの連絡を待ったが、一通のメールすら届かなかった。知らないうちに眠り、目覚めるとまだ五時にもなっていない。悲しいというより虚しい、怒りというより疲れを感じて、涙も流れなかった。

 だけど…… このままじゃイヤだ。このまま自然消滅するのをじっと待つなんてイヤ。訊きたいことも訊けず、ずっとあの人が求める私を演じたまま終わるのはイヤ。最後は私の気が済むまで一緒にいてもらいたい。私がもういいというまで傍にいてもらう。今度の週末こそ、訊きたいことは全部訊く。日曜の朝一番でなんか帰るものか。次の日も、その次の日も一緒にいる。彼の予定なんて関係ない。会社なんて辞めてやる。ずっと一緒にいるんだ。

 声が聴きたい。待てない。金曜日まで待てない。今すぐ聴きたい‼

(でも、イヤなんだろうな、こんな私……)
 そう思い直すと、結局何もできない自分がいた。

(嫌われたくない……)
 ベッドの中からメールした。

『おはよう…… ゴメンね、昨日は』
 知らず知らず情けない書き出しになっている。その続きを思いつかず、そのまま送信してしまった。

 ところが、彼から折り返しの電話がすぐに鳴った。あまりに早い反応に驚く。

「おはよう、佳矢、もう起きたの?」
 涙声になりそうで、何も言えない。

「昨日はありがとう。佳矢とメールして良かった。
 今ね、ちょっとメンタルやられた若い支社長がいてね。今日、面談なんだ。市来のこと思い出させてくれてありがとう」
「ううん」
「みんな一生懸命だけどちょっと空回りしたりすることもあるよね。みんながみんな同じ方向から評価されたら、自分を見失うヤツも出てくる。でも、必ずそれぞれに価値はある。何かはできる。それを見つけてあげなきゃね。それを思い出した。佳矢、ありがとう」
 それが本当のことか、ひと晩考えた彼の優しい嘘なのかはわからなかったけれど、こういう気の遣い方が遼ちゃんなんだと思い出した。どっちにしても、私のことをこの人が見捨てるわけないと思った。

「遼ちゃん…… 好きだよ。大好き」
 それしか言葉がなかった。

「佳矢もね、京極くん? っていうの? その失敗しちゃった社員。ちゃんと見守ってあげてね。特別なことなんかしなくていい。いつも通り、普通に接してあげればいいから」
「うん。
 遼ちゃん……」
 彼から誘われたことあるんだよ、そう言っていいかどうか悩んだ。結局、私は言葉を飲み込んだ。

「いいよ、なんでも言って」
「ううん、呼んだだけ」
「ハハハ、佳矢、ボクはわかってるからね」
「なにを?」
 知っているはずはないと思ったが、彼に京極さんのことを気づかれたかと、一瞬ドキッとした。

「ん? 佳矢のお尻にホクロが三つ並んでること」
「…… この卑怯者のエロ!」
 ちょっと誤魔化された気がした。

「アハハハハ、他の秘密も言う?」
「バカ! まだ朝だよ」
「あれ? 朝から手を伸ばしてきたのはだ…」
「もうやめて!」

 敵わない。この人には敵わない。この人には私の心も身体も隅々まで知られてる。隠しても無駄なんだよと言われてる気がした。だが、反面でそれを喜んでいる私も確かにいる。彼もそれを知っていてくれる気がした。

「昨日あんなこと言ったけど、ボクは佳矢を手放せないと思った。これ、ホンネ。じゃあ、もうそろそろ起きるでしょ?」
 さらりと告白する、やっぱりそんな彼が好き。

「寝不足でブスになった」
「アハハ、そりゃ大変だ。じゃあ早く化けなきゃ。じゃあね」
「遼ちゃん、金曜日遅れないでね」
「十九時〇九分に乗るよ、ホントは時間、忘れたことないよ」
「もぉ〜、バカ! 遅れたら許さないから!」
「愛してる、ボクの佳矢」
 ズキンとした。

「私も…… 」
「じゃあね。切るよ」
「…… 金曜日」
「うん、金曜日」
「…… 」
「切るね」
「…… 」
「じゃあね」
「…… 」
「佳矢?」
「…… 切っちゃヤダ」
「ハハハハハ」

 彼は困ったようだったけど、それから一時間近く電話に付き合ってくれた。目覚し時計がいつもの時間を告げる頃、ようやく電話を切った。


 すっかり心が軽くなった。単純すぎる女、と少しは思ったが、でもオフィスに着くまで、私はいつもよりずっと気分が良かった。
 オフィスにはいつも通り京極さんが既に出社していた。私より早いのは彼だけだ。

「おはようございます!」
 彼の失敗はすっかり忘れていた。つい、いつものトーンで挨拶していた。

「おはようございます」
 彼は少し驚いた顔で返事を返してくれた。この数日間影を潜めていた笑顔がやや遅れて戻ってきた。彼は私のコーヒーに目をやると、
「下のタリーズですか?」
 そう話しかけてきた。

「今日はちょっと電車に乗り遅れて、テイクアウトにしちゃいました」
「へぇ、じゃあいつも下に寄ってから来るんですか?」
「駅ビルのドトールに寄ることもありますけど」
「コーヒー好きなんですね」
「そう言われるとそうかもしれません。朝、家でも飲んで来るんです。私、コーヒー好きなのかなぁ? アハハハハ」
「アハハハハ、面白い人だな、中澤さんは」
「えっ? おかしいですか?」
「いや、もちろんいい意味ですよ、楽しくしてくれる、という意味です」
「あ〜、それなら安心した。私、変な人って思われてるかと思っちゃいました」
「変な人なんかじゃないですよ。僕も本当はコーヒー好きなんですよ。でも会社ではこれ」
 彼はそう言って缶コーヒーを軽く振ってみせた。

「コーヒーがお好きなら毎朝買ってきましょうか?タリーズで」
「いや、それじゃ悪いから、僕もタリーズで買ってくることにしますよ、明日から」
「タリーズ同盟ですね! 片平さんも時々来ますよ」
「そうなんですか。じゃあ僕も仲間入りしようかな」
「ぜひぜひ! 前にいた支社ではプロントがオフィスの下にあって、あそこはビールもあったから、プロント同盟ができて、時々帰り際に軽く飲んで帰ったりしてました」
「へぇ〜、楽しそう。武蔵野支社?」
「そうです。同じお店を使う人って、それだけで何となく気が合う気がしません?」
「します。激しく同意!」
「ですよね〜、じゃあタリーズ同盟、よろしくお願いします」
「いや、こちらこそ」

 彼はわざわざ席を立って深々と頭を下げた。いい人だな、素直にそう思った。




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