翌朝、いつもの時間にタリーズに立ち寄った。昨日の約束が京極さんの社交辞令に過ぎなかったとしたら、この先、恥ずかしくて目も合わせられないなぁ、と躊躇う気持ちもあったが、彼のことが気になってお店を覗いてしまった。
「中澤さん、ここ!」
店に入るや京極さんの呼ぶ声がする。恥ずかしいよりホッとした。
「おはようございます!」
私もつられて大声になる。朝早いオフィスビルで、ふたりのテンションだけが少し高い気がして笑えた。
「何飲んでます?」
「本日のおすすめ」
「ですよね。じゃあ私もそれにしよっと」
京極さんはもともと余計な気など遣わずに済む人だった。だから彼のアドバイスに従うまでもなく、私はごく自然に振舞うことができた。京極さんは特別な人という印象を与える人ではない。そこは明らかに彼と違っていた。
席に戻って何気なく彼のカップを覗くと既に空だ。
「京極さん、支社には何時に来てます?」
「七時半」
「えっ⁉ ここ開いてました?」
「開店と同時」
「え〜〜〜〜〜っ!」
ふたりで大笑いした。まだそんなに席が埋まった状態でもなかったが、さすがに周囲の客何人かが振り向いた。
「毎日そんなに早いんですか?」
「アハ…… いつもは中澤さんの十分前」
「今日は何か特別なお仕事でも?」
「ううん。中澤さんがいつ来るかわかんないから、開店から待つ事にした」
「え〜、またまたまたぁ〜」
「アハ、それはちょっと大袈裟だったかな」
「ですよねぇ、アハハハハ」
「でも、昨日の約束が万一社交辞令だとしたら恥ずかしいなぁと思って、一度支社に行って、それから降りてきた」
「え? なんでですか?」
「もし中澤さんとオフィスで会ったとしても、テイクアウト買いに行ってたところ、って言い訳できるでしょ?」
思わず彼の顔をじっと見つめた。この打ち明け話に親近感が湧く。私も少しだけそんな警戒心があった。男女の駆け引きなんて私にはできないし、京極さんもそんなタイプじゃない。そんな似た者同士の印象を感じてホッとしたのかもしれない。
同時に少しだけ彼を意識してしまって上手く会話が進まない。すると、京極さんはその場の空気を変えようとしてぎこちなくしゃべり始めた。
「同盟の成立を祝してメンバーで決起大会でもしますか? 他には誰がいるんだろ?」
恐る恐る、って感じもした。私の意思を確認しながら、でもちょっと誘われた感じはあった。
「片平さん」
私の反応もちょっとぎこちない。
「もしかして…… 片平だけ?」
「ダメですか?」
「アハハハハ、ちっちぇえ三国同盟だね」
「ホントだ、アハハハハ」
京極さんが心から笑っている。誘われた緊張がふうっと緩む。この人の穏やかな笑顔は支社の雰囲気も穏やかにしてるんだな、と今初めて気がついた。それからしばらく他愛のない話をして、ふたりでオフィスに上がった。
夕方、いつもの時間に東京駅に向かった。オフィスを出る前に京極さんの席をチラっと確認したが、彼は外出先からまだ戻っていないようだった。
終業と同時にオフィスを出れば、大丸の地下で買い物をする余裕が少しはある。何を買っていこうか、そんなことを考えながらサンシャイン通りを駅に向かうと、反対からやってくる支社長と京極さんに出くわした。
「おー、中澤さん。これから習い事だったね、お疲れさま」
支社長が右手を挙げて大声で呼び止める。
「すいません、お先です」
「何言ってんだよ。毎日この時間が当たり前なのに。悪いね、時々遅くまで仕事させて」
善人の支社長は心からそう思ってくれているようだ。京極さんも隣でニコニコ笑顔を向けてくれる。
「気を付けて」
支社長とにこやかに笑っている京極さんを見てホッとする。彼を悪く言う人もいるけど、きっと彼には味方もたくさんいる。そう思えたら、なんだか心が軽くなった。支社長の「習い事」という言葉がちょっと引っかかったけど。
デパ地下でチーズとハムを手に入れて特急列車に乗った。彼にはメールしなかったけど、ちゃんと蘇我駅で合流できた。たったこれだけのことで何もかも上手くいく予感がしてきた。やっぱり私は単純なんだろうか?
「今日はいつもより楽しそうだね」
「うん、なんだか楽しい」
「佳矢の笑った顔って幸せな気分にさせる」
「そう?」
「うん。それは間違いがない。なんて言うのかな、気を遣わなくてもいいかなぁ、って感じ」
「ふ〜ん」
車窓に映る自分の顔を眺めた。我ながらゆるい顔してる。先週、この窓に映る彼の視線を追ったことが遠いことのように思えた。
彼が好き。誰よりも好き。他の人には代え難い。だけど、先週のように胸が塞がる感じじゃない。なぜか、離れ離れでいても笑って待っていられる気がする。
ふと、今朝の京極さんを思い出す。彼の笑い顔を思い出したら、顔がさらに緩んだ。
「例の事故は収まったの?」
彼が車窓の私に語りかける。不意を突かれて身体がビクッと反応した。
「えっ⁉ 何の事故?」
「ほら、情報がどうしたとかしないとか」
車中だからか、彼も言い回しには気を遣う。
「あの事ね。事故なんて言うからビックリしちゃった」
不自然で余計なひと言だったかも知れない。だが、さすがにこんな場所で詳しく訊くのを憚ったのか、彼もこの話題からは逸れた。
「大したことなくて良かったね」
そう言うと、彼は珍しく目を閉じて眠った。私はなんとなく目を閉じる気になれず、すっかり日の暮れた沿線の景色を、ただぼんやりと眺め続けた。