遼ちゃんに合わせ過ぎなんでしょ!

 九月半ばになるとさすがの残暑も一段落し朝晩は少し肌寒い。まだ人肌が恋しい季節ではないけれど、ひとつのベッドに潜り込み、そのままずっと抱き合ってふざけあいたくなる季節はもうすぐそこだ。

 今朝は彼が珍しく目を覚まさない。背中を向けて寝るのは最近いつもの事だけど、私が起きあがっても気づかない。疲れているのかしら。
 だけど不幸せではない。気持ちがすれ違ってる訳じゃない。おどおど相手の出方を伺う必要もない。ひょっとすると落ち着いた夫婦ってこんな感じなんだろうか。彼に訊いてみたい気がした。

 ベッドから抜け出してコーヒーの豆を挽く。ゴトゴトゆっくりハンドルを回すと、ガリガリガリという軽い抵抗感が心地良い。単なる予備作業でしかないことも、今朝はそれ自体を楽しめている。心の底から穏やかな満足感がじわじわ湧き上がってくる。
 ドリップし始めると、心を鎮めてくれるコーヒーの薫りが部屋に満ち始め、窓辺から射し込む柔らかな朝陽と相俟って、この部屋の幸福感を一層引き立てた。
 幸せなんだと思った。私は満たされてる。仕事もプライベートも、今の私に十二分な幸福をもたらせてくれている。いつまでもこんな時間が流れればいいのにと思った。

「おはよう」
 ようやく彼が起きてきた。
「おはよう」
「あれ? もう着替えたの?」
「うん。だってもう十時前だよ」
「ホントだ。全然気付かなかったよ」
「おつかれね」
「なんでかな?」
「昨日もあのまま寝ちゃうしさ」
「あぁそうだった」
「ホントに何しに来てるんだか」
「アハハ、うたた寝って気持ちいいんだよ」
「うたた寝しに来てるの?」
「うたた寝しながら抱ければ一番いい」
「え? 私はついで?」
「な訳ないよ、今からでも、する?」
「しません! そんなこといってるんじゃありません!」
「な〜んだ、したくないのか」
 彼はそう言うと、わざとらしく落胆した様子を演じた。私は喜ぶこともできず、話題を変えた。

「ねぇ、海岸沿いを散歩しましょ?」
「うん、いいね。でもお腹空いた」
「そりゃそうよ、昨日もチーズ齧っただけでしょ」

 彼は食べることに興味を示さない。私も美食家ではないけれど、美味しいものを食べないのは損をしているくらいには思う。だけど、彼は全く食に興味がない。あるのはアルコールとチーズだけ。それさえあれば他に何もなくても文句ひとつ言わない。食事のことは彼に任せているとその辺りの定食屋さんにでも連れて行かれそう。でも、彼と過ごすうち、そういうことにも慣れてしまった。

(ひとつひとつ彼と同化してる…… )

 ふとそんなふうに思う。似たもの夫婦という言葉がある。それは、このような同化の結果なんだろう。彼と同じものを食べ、同じものを観て、同じものを聴く。そして肌を重ねて同じ時に全身で感じ合う。きっとその時間の積み重ねの結果なのだろう、そう思った。

 でも、そこまで考えて急に思考が止まる。

(私は彼と週末しか同化できない…… )

 つい先程まで感じていた幸福感を一瞬にして見失う。きっと表情を失くした冷たく強張った顔になったのだろう。

「どうかした?」
 気を遣って彼が私を覗き込む。
「ううん…… ブルーチーズの匂い、思い出しただけ」
「あー、佳矢は嫌いだったね」
 ゴルゴンゾーラなんて、どうしてあんなものが好きなんだろう? 私は全然ダメ。だが、それを思い出していたというのは咄嗟の嘘だった。今朝、この瞬間まであれほど感じていた幸福感を、たった一瞬、彼と過ごす時間の長さを考えただけで見失ったのだ。

(この人とはこの先を描けないんだろうか? 京極さんとなら……)

 どうかしている‼

 なぜ? なぜ、ただ一緒に働いているだけの人を思い出すの⁉ 何もない。彼と特別なことなど何もない。ただ、仕事が始まる前に一緒にコーヒーを飲むだけ。
(そう、コーヒーの香りがそうさせるんだわ)
 私は自分の心が勝手に思い起こしたことを無理やり押し込めようとした。


「向かい側のホテルで何か食べる?」
 着替えを済ませた彼が傍にやってきて再び私の顔を覗き込んだ。

「ええ…… そうしましょう」
「本当にどうかしたの? なんだか急に怖い目になったよ」
「えっ…… そんなことないわ」
「変だなぁ、あー、昨日の夜の事、まだ根に持ってるのかぁ? 大丈夫だよ、今夜は眠らせないから」

「そんなことじゃないって言ってるでしょ!」

 声が尖った。彼の顔がみるみる変わる。

「ずっと機嫌良かったのに。どうしちゃたんだろ?」
「ごめんなさい。ホントにブルーチーズの匂いが……」
「そっか。そうだよね、嫌いな人にとってはキツイよね。まさか食べたとか? ボクが寝てる間に」
「…… ちょっとだけ」
「バカだなぁ。嫌いなものまでボクに合わせる必要などないのに」
「うん。もう食べない」
「捨てようか?」
「ううん、大丈夫。でももう買わなくてもいい?」
「アハハハハ、いいに決まってるよ。別に、なきゃなくて全然かまわないよ」
「ごめんなさい……」
「バカだなぁ、佳矢は。ボクに合わせようとし過ぎだよ、何事も」

 そう、合わせようとしている。それが当然だと思ってきた。だって、私が合わせなきゃ、きっとあなたはもうここにはいないでしょ? そう思うとまた涙が出そうになる。

「キスしようと思ったけど、ブルーチーズの匂いが残ってると嫌だろうし、今日は自粛しておこう」
「うん」
「うん? それはそれで辛いな、アハハハハ」
「…… ちっとも辛そうじゃない」

 何を言っているんだろう。私はいつも自分を見失う。彼といると見失う。そのことは嬉しいことだったはずなのに、いつの間にか辛いことに変わり、今は少し……

「よし、とにかく出かけよう。気分を変えよう。ねっ」
「うん。お昼には少し早いから、海風にあたって、それから食事でもいい?」
「え~~~~っ、お腹すいたよ」
「遼ちゃんに合わせ過ぎなんでしょ?」
「こいつ! 心配して損した!」

 彼に優しく見つめられた。そうされるとやっぱり身動きできない。

「遼ちゃん…… 好きなんだよ、私。遼ちゃんだけが好き」
「ボクは多分、その倍は好きだよ」

 一瞬でも京極さんのことを考えた自分が嫌になった。私はこの人のものだ。そう思いながら瞼を閉じた。




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